書籍・雑誌

2009年6月20日 (土)

普通の人々

プロローグ

もう一人暮らしを始めて5年になり、何ごとも成り行きまかせになってしまった。

このところ面白くないことが続いたせいか少々やけになり、昨晩はボトルを2/3ほど空けてしまった。その残骸が朝になっても食卓テーブル兼仕事机の上に散らばっている。何ともこれが独り住まいの女の部屋か、と自嘲気味に定まらない視線で卓上を眺めるが、改めようという気力が湧いてこない。

アルコールのせいで、頭の芯は錐でつつかれるようにちくちく痛むし胃袋は鉛でも飲み込んだかのようにどんより重く、おまけに吐き気がする。この分ではきょうは気分最高とはいきそうにない。加えて喜ばしいことに、これまでの状況を判断するに、最悪気分の記録更新はこれからも続くことが予想される。何ともやりきれない気分だが打開の道も今のところ見つからない。

それでも、ベッドを離れたくない気分を押して何とか起き上がり、よろよろとトイレへ行く。次に玄関のポストから新聞を引っこ抜くために壁伝いに老人のように用心深く足を進める。いつも後悔から、今日からは酒の量を控えようと朝には決心するのだが、夜になると淋しさからついその決心も揺らいでしまう。そしてまた翌朝に後悔するということの繰り返しなのだ。

この1DKのアパートは、一人暮らしの女にはちょうどぴったりの造りではあるが、毎月の家賃が財布にぴったりとはいかないことに少々不満を持っている。まるで部屋代のために派遣やっているようなものだと本人は訝るが、これも自分で決めたこと。誰にも憤懣のもって行きようがない。かっては人並みの幸せな生活を夢見て結婚もしたが、些細なことが理由で3年で破局。無残にも別れ話と共に幸せな夢も消え去った。以後、とりあえずの仮の生活と思っていたひとり住まいが長く続くことになってしまった。この現状がこれからいつまで続くのかも定かではない。さらに悪いことには、本人はそれを認めたがらないが、当初の遠大な計画も希望も今では費え去ろうとしているのだ。

ベッドの上に胡坐をかいて漠然と新聞を眺めていると、きょうは200846日とあった。ラッキー、今日は日曜日だ。派遣で週4日通う貿易会社の嫌な同僚やセクハラ上司にもきょうは会わなくて済む。少し気分が向上してきたことを感じた山崎瑞穂はベッドに座りなおし、今度は一面から順に新聞に目を通し始めた。この新聞も生活苦のために止めようと思うのだがその度に新聞集配所の主人に泣きつかれ、経済的にはこっちが泣きたいのについつい契約してしまうのだと本人は自分自身に言い訳している。が、その実、契約するときの景品に惹かれたのも理由であるらしい。その時は最大限購読者の権利を主張し、洗剤、ビール券、それにお米券と新聞集配所が泣きそうになるまで要求し、投資の元を取るのである。転んでもタダでは起きない点も山崎瑞穂の一面であるらしい。

今日の毎朝新聞は、中国のオリンピック開催に伴うトラブルで、聖火リレーが頓挫したとか、いつもながら無謀なブッシュのイラク戦争でまた車爆弾が破裂して、周囲40メートルが廃墟と化し30人以上が死傷したとか、国内事情に目を向けると、無能な福山首相がまた迷走して何事も決めることが出来ず、国会はもう1ヶ月以上も空転しているとか、例によって社会保険庁の杜撰な処理の仕方に怒った野党議員が、選挙目当てのパフォーマンスで庁舎に怒鳴り込んでいったというような、彼女にとってどうでもいいような記事が満載されていた。その合間に、今年の水着各社の新製品を誇示した写真が載っているのに注目した。そのカラー写真のモデルはどれも魅力的に見えて、無意識のうちに自分の腹の周りをつまんで水着モデルと比較してみた。わたしも若い頃はと、女として微妙な年齢のバツイチは一瞬の深刻さを表情に表したが、次の瞬間にはあっさりと日曜書評欄に目を移していた。日曜版では必ず彼女が目を通す記事だ。おや、と山崎瑞穂はきょう初めて神経を集中した。なぜなら、自分の作品と同じタイトルの本の書評があるのに気づいたからだ。

何を隠そう、山崎瑞穂はミステリー作家を夢見ているのだ。いつかは陽の目を見て自分の本が売れるまで、派遣はそれまでの生活の糧を得るためであり、いつまでも現状に留まるつもりはなかった。が、しかし、その日ははるか遠く、ついぞ訪れることがないかもしれないとの思いが心の片隅を過ぎり、山崎瑞穂は思わず身震いするのだった。この1週間、PCのディスプレィに向かって三行書いては消してまた書いてを繰り返すばかりでなかなか進まない。やっぱり自分は駄目なのかもしれないという思いがつい酒の量にも及び、忸怩たる思いにかられるのだが、今朝、自分のミステリーと同じ題名の本を毎朝の書評欄で見つけ、山崎瑞穂はがぜん記事の内容に興味が湧いてきた。

一通り目を通してみて山崎瑞穂は驚いた。タイトルも同じならストーリーの流れも瓜二つ。こんなことがあるのだろうかとしばし思案したが、二日酔いの後で思考もまとまらず疑問のままにその日は深く考えなかった。選者はミステリー界の大御所龍崎憲一。そして本の著者は始めて聞く名前の安西健吾氏。書評氏の紹介によると25歳の男性で早稲田の文学部中退後バイトで生活しながら今回の作品をモノにしたということであった。30年に一度の免品との誉めことばからして、出来は相当なものだろう。自分と同じような境遇から芽が出た著者にエールを送りながらも一方で、本当に免品なのかと僻んでいる自分に山崎瑞穂は気がつき、吐き気がまた戻ってきたような気がした。

2007年10月31日 (水)

永き眠りの後 end

エピローグ

パク・ジョンイルの野望に、好むと好まざるとに関わらず、巻き込まれて振り回され、一喜一憂した人々のその後について簡単に触れておく。

おじいちゃんを「事故」で亡くしたイ・ヒョングとリョ・テクの孫たちのその後について。

いつものように学校が終わり家に帰っても、誰も、お帰りと言ってくれる人はいないので大変寂しがっていた。しかし、不思議なこともあった。あの事件以来、毎年旧正月の2月とおじいちゃんたちの命日には日本国内の朝鮮総連を通して、ある人物から七色ドロップとチョコレートが送られてくるそうだ。孫達は大変喜んで、これはきっとおじいちゃんが送ってくれたものだと今も思っている。それにも増して親たちが驚いたのは、事件の起こったひと月後のこと。党中央委員会の者と称して、イ・ヒョングの息子夫婦のアパートに男が二人訪ねてきた。娘夫婦はとっさにまた何か問題でも起こしたのかと顔を引きつらせたが、実はそうではなかった。その男は、父イ・ヒョングを労働英雄として表彰したい旨伝えに来たのだ。ますます混乱した夫婦は、悪い冗談かと思ったが、幸いにも間違いではなかった。ちゃんとパク・ジョンイルの肖像が彫ってあるブロンズのメダルと、労働者の2ヶ月相当分の賞金が添えられ、それに、この頃は滅多に手に入らない肉の薫製らしきものを置いて帰ろうとした。我慢しきれずイ・ヒョングの娘が党から来たといった男におずおずと尋ねた。父が、国家のためにどんな英雄的なことをしたのか、と。その党の要人らしき男はそれに対して、国家の機密であるからそれは明かせないが、あなた達の父は勇敢に国家人民と党のために一命を捧げた、我々はその英雄的犠牲を永遠に忘れないだろう、といって去っていった。後に残された親子は狐につままれたような顔をして互いに見合っていたが、誰とはなく涙が出てきて親子4人抱き合って泣いた。それはメダルと賞金をもらったうれしさ故の涙ではなく、いつもさえないように見えたあのおじいちゃんが、お国のために何かどえらいことをしたという誇りからだった。もう孫たちも周りの子どもたちからつまはじきにされなくて済む。と、言うのが、この噂はアパートの付近一帯に広がり、あのイ・ヒョングが、と人びとが噂するようになったからだ。

リョ・テクの家も同じような有様だった。突然訪問した党の要人が、リョ・テクの「偉業」を称えて帰って行った。リョ・テクの養子夫婦と孫たちは、何が何だか分からない中呆然とその場に立ちつくした。気がついて辺りを見渡したらリョ・テクのアパートの周りは黒山の人が集まっていた。それもそのはずだ。党の記章と旗をなびかせた高級車が駐まり、うやうやしくリョ・テクの家に入っていったのだ。周りの子どもたちはリョ・テクの孫たちに、労働英雄として授けられたメダルを見せてくれとせがんだ。リョ・テクの孫たちは、この時ほどおじいちゃんを誇りに思ったときはなかった。興奮も冷めた後になって孫たちは思った。おじいちゃんはどんなすごいことしたんだろうかと。しかし子どもたちにとってそれは永遠に謎のままだろう。

ロシア大使館付「商業調査担当」ミハイル・ヤノーシュは、妻ソニアを「業務中の事故」で亡くし、しばらく呆然としていたが、考えた末に、故国に帰ることにした。そして、まだ50歳になったばかりのミハイル・ヤノーシュはこの仕事が嫌になり、少し早いが引退したい旨上司に申し出た。

通常はあり得ないことだが、内情を理解していた上司はそれを快く受け入れた。帰国後、ミハイルは二人の子ども達と故郷のペテルブルグで年金を元手に、雑貨屋をはじめたそうだ。皮肉なことに、その雑貨屋がたいそう繁盛して、ミハイル・ヤノーシュは長女のソーニャにも手伝いを頼むことが多くなった。いつのまにか成長したソーニャは、母親にうり二つになり、ミハイルは東京時代を思い起こしてさみしくなることがあるそうだ。あの時、自分がどうしてもっとはやく気づいてやれなかったのか、夜になると自責の念に駆られ、それに妻を亡くした寂しさからワインの量が過ぎることがあるそうだが、娘のソーニャーにやさしく口づけされ、はやく休むように諭されるらしい。この元スパイの雑貨屋は、今も男やもめながらペテリブルグの下町にひっそりと営業しているそうだ。

セルゲイ・バッハービッチは大統領への報告もそこそこに、ミーシャの待つ実家へ飛んで帰った。

一連の事について何も知らされていないミーシャは「ごく普通」の大歓迎をしてくれたが、セルゲイにはかえってそれがうれしかった。久しぶりに会ったばかりなのにミーシャは、セルゲイが出かけていったその後のことを1から10まで事細かに話し続けるのだった。それをただほほえんで聞き流していたが、セルゲイはやっと自分がミーシャのもとに帰ってきたんだという実感が湧いた。義父のラスコー夫婦もセルゲイに目配せして、陰ながら無事の帰還を喜んでいた。そして一時は、娘ミーシャとセルゲイの結婚に大反対をしたラスコーではあったが、今日ほどこの義理の息子を誇りに思ったことはなかった。初めから話し続けていたミーシャももう話すことがなくなったらしくしばらく静かにしていたが、次の瞬間また、ニースへはいつから出かけるの、とセルゲイに迫って、大統領の命で家を明ける前に約束したことをセルゲイに思い出させた。今度の旅行も、きっと義父のラスコーが航空券から滞在先のホテルまで手を回してくれることだろう。ありがたいことだが、出来れば飛行機はアエロ・フロートではないものを願いたいが、愛国者のラスコーにはその願いは通じないだろうとセルゲイは覚悟した。セルゲイは今回の事件を経験して、ひとつ決心したことがあった。それは、自分にはこの仕事は向かない。もう一度大学の研究室に戻ろう、たとえ貧乏しても。それにはまた義父ラスコーの口添えが必要になり自分としてはあまり気が乗らないが、まあこの際致し方はあるまい。

その前に、今回の出来事の膨大なレポートを書くのが先だが。

エレーナ・テレジゴワは毎日サナトリウムの窓の景色を眺めるのが唯一の楽しみとなった。

体はますます硬直して、記憶もかろうじて幼い頃の母との楽しかった記憶は残っているが、記憶が新しくなるに従って薄れていき、昨日のことはまるで覚えていない。しかし、あやふやな思考の中で、最近イズベスチャ紙の一面を飾った「ジェイコブスキー大統領任期途中での辞任」に関する記事ははっきりと記憶している。なぜなら、エレーナの母に対する、若かりし頃のジェイコブスキー大統領の仕打ちへの当然の代償を払わせたと自負できる出来事だったからである。エレーナは、たとえわが身がこのために潰え去ろうとも悔いはなかった。

このジェイコブスキー大統領辞任に関したことで、クレムリン高官のオフレコによる示唆によると、ジェイコブスキー大統領のスイスにあるチューリッヒ・ナショナルバンクの秘匿口座には、莫大な金額の預金とその銀行の地下にある貸金庫には5億ドル相当の債券がFSBの手で明かされたそうである。そのことについて大統領は一切預かり知らぬ事と弁明したが、政敵はこれを機に、ジェイコブスキー大統領を追い落とすことに成功した。何事にも強引な大統領には政敵が多かったのだ。ただし、内政・外交両面を考慮して辞任の理由は「健康上の理由」となった。その後、ジェイコブスキー氏はウクライナの小都市ソチの近郊で、二人の従者の監視の下に年金生活に入った。彼も終日窓からの眺めが唯一の慰めになるそうだ。彼はその後回想録を執筆しようとしたが、その概略を構想する段になってペンが進まなくなった。なぜなら、血を分けたエレーナとその母親のことを正直に書くくらいなら、むしろ沈黙する方が痛みは少ないからなのだろう。そうであれ、ばこれからの余生を何をして過ごせばよいのか、考え抜いた元大統領は、解放され自由にることを選択した。方法は、二人の従者の隙をついて風呂場でカミソリを使ったらしい。用意周到で、シャワーを出し放しにしたうえで左手の手首の血管を縦に切り開いて冷水につけた。長いシャワーを不審に思った見張り役の従者が見つけたときには、もう血液は残り少なくなっていた。翌日の新聞によると、ジェイコブスキー元大統領は昨日、ソチの別荘で心臓発作に倒れ、医師の介護もむなしく回復しなかったと報じられていた。

ジュディ・マクガイアとマイク・ウエインは1年後に結婚することになった。

ジュディは、今回の事件解決での指導的な働きに際して、アメリカの中枢を牛耳っている面々の居並ぶ前で、ジュリア・ジョーンズ大統領から表彰され、FBI捜査官として不動の地位を獲得した。また、マイク・ウエインは、準教授紀要論文の遅れを取りもどすべく猛烈に勉強した結果、スタンフォード大学原子物理学の準教授資格試験にパスした。周りが言うには、二人が結婚したらきっとマイクはジュディの尻に敷かれるだろう、と。しかしそれは、マイクの望みでもあったのだ。それに、当然なことだが、このことはホワイトハウスの外に漏れることはなかった。なぜなら、もし核爆弾がニューヨークのど真ん中に持ち込まれたことが明らかになれば、爆発するしないにかかわらず、その責任を問う声は止まなかったはずである。何千億ドルも軍と諜報機関に金をかけておきながら、このざまは何だと共和党の院内総務あたりから糾弾されるはめになるのは火を見るより明らか。従って、ジュディ・マクガイアとマイク・ウエインは本来ならば国家の英雄として新聞テレビをはじめ全世界のメディアに登場するはずであったが、何のインタビューもなかった。もっとも、二人にとってそんなことはどうでもよかったのだ。ただ偉大な仕事をしたという充実感があったので、それで満足だった。

事件が一段落した日に、読売の矢崎と朝日の大家は、道新の檜山の墓参りで札幌に飛んだ。

檜山は生まれも育ちも道産子で、父親の話では、言い出したら聞かない正義感の持ち主だったそうだ。話を聞いていて、二人は成る程と思うことが多かった。彼は苦学したらしく、病みがちだった父のめんどうを看ながら、奨学金を受けて北大を卒業し、地元の北海道新聞に就職した。そして東京に派遣されて2年目、やっと30歳になったばかりの彼の前であの「大事件」は起きたのだった。それが一途な彼の正義感と衝突し、政府の言い分によると30万人の命の前に、苦渋の選択をしたとのことだったが、このことについて、矢崎と大家は一体だれを責めるべきか悩んだし議論もしたが答えは出なかった。強いて問えば、あの独裁者だろう、ということで話は治まった。矢崎も大家も、それには異存はなかった。そして矢崎と大家は、この一連の前代未聞の大事件について、朝日と読売の連携で特集を組むことをデスクに願い出て了承された。大筋での記事は二大新聞とも同じだが細部に至ると、その紙面により情報には違いがあり、読者は結局二紙を読まされることになるだろう。さすがここでも「ブル新」の根性をいかんなく発揮した出来事だった。勿論、矢崎は近いうちに東京本社勤務に戻り、報道部長は、本人が嫌がるのを制して社会部デスクに任命した。ただし、いつもそこに座っているとは限らないという了承をとってのことだが、それでもしぶしぶ受け入れた。

内閣官房副長官篠崎百合子は大山一郎首相に辞表を提出した。

理由は、いかに数十万の命の安全のためとはいえ、ひとりの若者の命をそれと引き替えに奪う命令を出したのは自分の責任だと自認していたからだ。確かに政府が考えたように、伏せておいた方が良かったのか、それとも道新の檜山が言うように早い時期に何らかの方法で目前の危機をオープンにして大惨事になった場合のことを想定するべきだったのか、今も分からない問題だ。あの状況で自分が決断したことは間違いではなかったろうが、しかし、ではそれが正しかったかと問われれば、自分の良心に照らして、わからないと言うしかなかった。大山一郎首相は強く留意したが、篠崎の決心は固かった。篠崎百合子のこれまでのキャリアは、この大事件によって無惨にも汚れてしまったが悔いはなかった。

彼女の多くのライバルたちの前を去っていく篠崎百合子は、何かサバサバしているように見えた。かって篠崎百合子と競い合った男たちも女たちも、事情を知っている者は逆に目を伏せた。自分だったら、篠崎のように冷静な判断が出来るだろうか、と考えたのだ。最後に、篠崎が内閣官房副長官の部屋を出て行くとき、東条とその部下は敬礼をもって送りだした。東条はこの任務について25年になるが、後にも先にも、女に敬礼したのはこれが初めてだった。

篠崎は鹿児島の母の元に帰ろうと思った。母ひとり子ひとりから出発したのだ。40代の独身女性としてはハンディもあるが、もう一度初めから挑戦してみよう。そしてこのチャレンジ精神こそ彼女の持ち味なのだ。

海田みどりはその後の努力の結果、知識においては同年代の人間に引けを取らないほどになった。

そればかりか両親譲りとでも言おうか、強靱な意志の力で体力も飛躍的に回復に向かった。既に、身体的に誰もこの人がかって寝っきりの病人であったとは思わないまでに回復した。しかし、幼い頃自分が経験したあの夜の出来事は記憶から消し去ろうにも消し去ることが出来なかった。時々そのことを考えると鬱ぎたくなるが、そこを乗り越えようと努力している。しかし、これは知識を吸収することや体を回復させることよりも難しいだろうが、その原動力がないわけではなかった。それは、両親は互いに敵対していたかもしれないが、それでも自分を愛していたという確信があったからだ。母の出生はわかったが、相変わらず父の素性はわからなかった。またそれを敢えてほじくり返すことに意味があるとは思えなかったので、海田みどりはそのままにしておいた。いまでは、毎月「富士吉田サナトリウム」にいる浜崎あゆみの兄を訪問するのも楽しみのひとつになった。そして、寝っきりの、意識がないと思われている無表情な浜崎あゆみの兄に、海田みどりはいつか目覚める日のために、世界中で起きたことを語り聞かせている。たとえその日がこなかったとしても続けることだろう。前回はサン・テグジュベリを読んで聞かせているうちに夕暮れになってしまった。

浜崎あゆみは、いろんな事が自分の身の周り起こり、ただそれの処理に追われ、今まで自分のことに思いが回らなかったが、今やっと自分の事を考えるゆとりが出来たように思った。

今までは、毎朝鏡を見るのも最低限の身繕いのためだったが、今朝、まじまじと自分の姿を見て、鏡の自分に笑いかけてみた。そうしたら鏡の中の自分もほほえみを返してきた。こうしてじっくり鏡を覗くのは何年ぶりだろうかと思ったが思い出せなかった。今まで自分は病床にこそ伏してはいなかったが、どこか病気だったのでないだろうか。今やっとそれが回復に向かっている。心のどこかで、自分の責任だと力んでいた兄の看病も、そのためにだけ自分の人生があるなどと考えた自分がおかしく思えた。確かに今もそれは浜崎あゆみの人生の一部ではあるが、その全てではないのだ。それに、これからは力強い協力者が現れた。身寄りは兄だけだと思っていたが、もうひとり同年代の女性があらわれたのだ。

そう言えば、エイコー電気一番の売上を誇る田中雄介が、何かにつけて自分を誘いに来るが、今日はひとつOKを出してみるか。そう考えている自分を思って、驚きと共に自然と笑みが湧いてきた。そのせいか朝階段を降りて職場に向かう浜崎あゆみのローファは弾んでいるように見えた。

海田真一郎について、もちろんアメリカ政府は何の公式発表もしていないが、内々に日本政府に伝えてきたところによると、北朝鮮首脳陣は、その後海田真一郎を丁重にしかも監視のもとに置いたが、両国の最終的な合意が成立し、カンビール型核爆弾と共に彼を洋上で待機していたアメリカ大統領差し回しの原潜に引き渡したということらしい。

消息筋の話によると、その時に海田真一郎は若い女性をひとり伴っていたとのことであった。ジュリア・ジョーンズ大統領が北朝鮮の共産党議長宛送ったメッセージには、当然といえば当然だが、北朝鮮にとって外交文書としては最悪の要求がしたためてあった。その極秘メッセージの一部を列記すると、「この度、わが国に対する核による卑劣な脅迫に対し、わが国は核攻撃による反撃の用意がある旨通告する。但し、もし、貴国が以下の条件を満たした場合は攻撃を思いとどまることもあり得る、と宣告して、その条件の最初に海田真一郎の身の保全と共に戦略核爆弾の返還があった。それに続いて、今まで新聞紙上に何度となく採り上げられた、アメリカの要求項目を網羅していた。ジュリア・ジョーンズ大統領は、これらのひとつでも不履行と認められた場合、アメリカ合衆国はためらうことなく、ピョンヤンへミサイルを発射する権利を留保する」、となっていたらしい。

海田真一郎がその後どうなったかについて、アメリカは一切明らかにしていないが、ある日、浜崎あゆみのもとへ不思議なはがきが届いた。消印はバハマ諸島で、差出人の名前は書いてなかったが、その文字を見て瞬時に誰であるのか浜崎あゆみには理解できた。ただ、今はこのことは自分だけの胸にしまっておこうと思った。そしていつの日か話す機会がきたら海田みどりにも説明しよう。

バリバ島はバハマ諸島の最南端にある小島で気候も温暖、1年中が常夏のように日差しは強いが木陰に入ればけっこう涼しい。この島の特徴は、現地の人びとに混じって島外の人間が多いということだ。ヨーロッパ人にアジア人それに最近は中東の人間も加わり人種のるつぼのようになっている。もうひとつの特徴として、この島は、いわゆるよそ者に優しい、ということだ。国家権力から祖国を追われた者や組織のボスの金とついでに女をかすめ取って逃げ込んできた二人連れや、人を殺して命からがら逃げ込んできた者にもこの島は等しく優しいのだ。アロハシャツ姿の役人は100ドル紙幣でほとんどの手続きを代行してくれ、1000ドルも払えばバハマ諸島の正規パスポートも用意してくれる。この島で生きるための唯一の法律は、この島では犯罪を犯すべからず、むやみに他人を詮索するべからず、だ。住人の話によると、この2つを遵守すれば天国の次に住みよい島だそうだ。

あの事件からちょうど一年後、北朝鮮全土のラジオ・テレビは早朝から荘厳なクラシック音楽を流し始めた。

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2007年10月30日 (火)

永き眠りの後に#39

デッサン39

騒ぎ声とドアーを壊しているような音に海田真一郎は目を覚ました。メ・ユンジュンはあどけない顔をしてまだ眠っている。一人起き出してパク・ジョンイルの様子を見に行った。彼も椅子に縛られたままで眠っていた。この男は悪党ながらたいしたものだと海田真一郎は思った。きょうは自分の運命が決まるというのに眠りこけている。ガウンの胸も裾もはだけ裸同然で革張りの椅子に縛り上げられている姿には、既に国家指導者としての威厳はない。このままの姿を党や軍の上層部に見せてやるのもいいだろうと思い、このままにしておくことにした。いつしか後ろにメ・ユンジュンが心配そうに立っていた。海田真一郎はその心を察して、

「君には世界でいちばん偉大で力のある国が味方しているから何も心配はいらない。だからわたしの言うとおりにしてくれるか」、と話した。

「どうしてわたしにそんなに親切にするのですか」と聞いてきたメ・ユンジュンは泣いていた。海田真一郎はそれには答えず、

「わたしを手伝ってください、決してあなたの国を悪いようにはしません。もちろんあなたにも」

メ・ユンジュンはそれ聞いて納得したようだった。自分が国を裏切るようなことはいくら命を助けられても出来ないことだと思っていたからだ。しゃちほこばった軍隊や官僚よりこの女の方がよほど愛国者だとその時海田真一郎は思った。外の騒音がはっきり聞こえるようになってきた。海田真一郎は昨晩の残りの苦いコーヒーを一口飲んでその瞬間を待った。パク・ジョンイルも目を覚ましたようだ。窓のぶ厚いカーテンを無造作に開くと、グレー・スモーク眼鏡の奥からまぶしそうに外の光に目をしばたかせている。

「気分はどうだ」と海田真一郎が話しかけると、

「もうお前も終りだな」、とパク・ジョンイルが言い返した。

「どうしてそう思うのだ」

「その訳はな、党も軍部もわたしをさらし者にするわけにはいかないからだ。そんなことをしたらこの北朝鮮という国家体制は崩壊してしまう。この国にはわたしの他にヘッドがいないのだ。その原因はこのわたしの策略にある。常に気を配って、出てくる杭を粛正していったからだよ。だから有能な人物はこの国には残っていない。すべて今の指導者層は二級品ばかりだ。つまりどいつもこいつもほぼ同じような能力の人間で、それも互いに足を引っ張り合っている。この中からわたしの後継者がでることは不可能だ。この事についてはわたしが請け合おう」

それから不適な笑いを浮かべながらこういった。

「お前の運も尽きたということだ。昨晩、五億ドルと引き替えにわたしを解放して国境を越えておれば良かったものを。もうすぐ共産党総会議長始め党の要人に軍上層部がくる。その時がおまえの運の尽きるときだ。わが国がアメリカのミサイルが怖くて大統領の要求を飲むと本当に思っているとしたらお前さんは何とお人好しなことか。われわれ北朝鮮の共産党は、たとい国民の半分が滅んでも痛くもかゆくもないのだ。なぜなら党に立ち向かうような人間などひとりもこの国には残っていないのだよ。軍部がクーデターを起こすことを期待しているかも知れないが、軍部も党と似たり寄ったりで尊敬を受けるような人物はいない。いたらとっくに粛正されるか軍事演習中に事故で死ぬことになっている。それに、理由の如何に関わらず、軍隊というものは外部から攻撃を受ければ外に向かって身構えるものだ。その際どちらの国家に非があるのかと言うことはどうでもよくなる。」

「では、なぜアメリカを核で脅したのだ。アメリカがイラクの次は北朝鮮と明確に焦点を絞っていたので焦った結果ではないのか。そこまでアメリカが出なくても、この国を威嚇したり小競り合いで小規模の紛争になればアメリカとの争いは大人と子どもの争いだ。簡単にひねりつぶされるだろう。そうなればお前に対する責任問題に発展するのは必至だ。本当はそれをおそれての今回の愚行ではないのか。お前はこの国の指導者は自分以外にはあり得ないと言うが、果たしてそうだろうか。お前の周りはイエスマンばかりだ。こんな連中はイザとなったら頼りにならないばかりか寝返りも得意なはずだ。それに、お前の後釜を狙っている輩がぞろぞろいることはお前がいちばん知っているはずだ。日本だけならいざしらず、アメリカまでも核で脅迫した時点でお前の運命は尽きたようだな」

「あれはアメリカへの単なる脅しだ。おまえには国家間の心理はわかっていないらしいな。どういう事態になってもアメリカはわが国を攻撃なんか出来ないのだよ。今アメリカがわが国を通常兵器にしても核兵器にしても攻撃してみろ。わが国の国民の生き残りは国外目指して怒濤のごとく流れ出すだろう。それは陸続きの中国と南朝鮮それにロシアにとって悪夢だ。それぞれの国には朝鮮族を何百万と抱えているからな。当然人道的にも難民となった北朝鮮民衆をむげに扱うこともできない。そうなれば長期に渡って各国は膨大な出費を覚悟しなければならなくなる。北朝鮮の崩壊を恐れている本当の理由はここにあるのだ。だから、この3カ国はわが国が独裁国家として世界中から非難されようとも自国から見て少々目障りな国家体制だとしても、わが国家体制を支持するわけだ。その目的は北朝鮮という国家が曲がりなりにも存続し国民を北朝鮮という国家の檻から出さないように願っているからだ。だから中国、ロシアに南朝鮮のわが国への経済援助は、わが国の崩壊を食い止めるための保険というわけだ。従って、アメリカがわが国を本気で攻撃することはロシアも中国も決して許さないだろう。ここがイラクとわが国との違いだ。もっとも南朝鮮はアメリカにものが言える立場にないから崩壊を食い止めるためにだけに何かにつけて膨大な援助を申し出ている。近隣諸国はわが国の軍事力を恐れているのではない、本当はわが国が崩壊した場合の難民を恐れているのだ。つまりわが国の秘密兵器は実は難民兵器なのだよ」

「しかし今度は度が過ぎたようだな。アメリカは本気だ」、

「いや、アメリカには手出しは出来ないはずだ。たといわが国がアメリカを核で脅したとしてもな。もし、アメリカ国内に第三国が核を持ち込んだと言うことが表面化した場合どうなると思う。間違いなく時の政権は崩壊する。これは誓ってもいい。他国や友好国に核が持ち込まれてもアメリカ国民は許すだろうが、もし自国へ核が持ち込まれたら話は別だ。1962年のキューバ危機をあんたも覚えているだろう。ソ連の核ミサイルがキューバに持ち込まれただけでアメリカは騒然となり、時の大統領ケネディーはフルシチョフに対して核戦争も辞さずとまで意気込んだ。これがもしアメリカ国内に核の侵入を許したとでも言ってみろ、即座に政権は崩壊する。一体何のために世界最強の軍隊と最高の諜報機関を駆使しているのかと国民から突き上げを食うだろう。従って、わが国が核を持ち込むのに成功した場合、アメリカは表だってそれを理由に核攻撃も侵攻も出来ないのだ。わが国が、ニューヨークタイムスかワシントンポストにちょっとリークするだけで、アメリカはと言うよりも自由主義世界全体が大混乱になる。結局アメリカは手出しは出来なくて、わが国と秘密裏に取引することになる」

「しかし、それは誤算だったようだな。今度という今度ばかりはアメリカも腹を決めた。その答えがこのわたしだ。ジュリア・ジョーンズ大統領はお前の抹殺に許可を与えた。但し、この北朝鮮という国家体制はこのままにして、お前だけに退場願うと言うことだ」

パク・ジョンイルはそれにたいしては何も答えなかった。ドアーの施錠を壊している騒音は前よりひどくなった。まもなく党の代表がここになだれ込むことだろう。

「核による脅しは日本に限定すべきだったな、そうすればアメリカを巻き込むこともなかったろうに」

「今までの歴代首相は事が起こればいつもアメリカに泣きついていった。その際アメリカは、日本の肩を持たざるを得ない。しかし元々アメリカは日本のために、わが国を攻撃するリスクは犯したくないのだ。所詮、日本とアメリカの安全保障とはその程度のものなのだ。どこの国が友好国を助けるために核戦争の危険を冒すと思うかね。安全保障条約は、素人はいざというときの頼みの綱と思っているだろうが、それは違う。あの条約は、平和な時代を説明するための理論に過ぎない。この条約があるから平和を保っているのだと、国民に説明できるからな。だから、あの条約が効力を発揮するのはせいぜい小競り合いまでだ。国家間で対峙するような事態になれば役に立たなくなる。だれだって自分の身がかわいいからな。

アメリカの懐にわが国の核が眠っていれば、この事によってアメリカは、日本の緊急時に応援を断る理由が出来る。自分たちも今身動きできないのだ、とね。ところがひとつ見過ごしたことがあった。大山一郎は、事が起こったときに、自国だけで事を運ぼうとした。これは我々の誤算だった。わたしの当初からの計画は、わが国の経済が安定するまで、日本から恒久的に「高額な経済援助」をせしめることにあったのだ。しかし、どこかで躓いたようだな。あの核さえ見つかっていなければ、大山一郎はこれから何十年にも渡って、わが国に貢物として経済援助をしなければならなかったのに。それにアメリカへの核は、これから長期に渡って国家としてのまさかの時の保険だった。あれがある限り、表面上はどうあれわが国に手出しは出来ない」

「なぜ国交回復という正当な政府間交渉で日本へ戦前戦中の補償を求めないのだ。これはお前たちの正当な権利として国際間では認められように」

「平和条約はそう簡単なことではないのだ。第一、わが友好国中国が表向きはともかくとして、それを望んではいない。中国にとって、わが国が南朝鮮のように自由主義社会になり、中国よりも南朝鮮や日本の方に顔を向けるのは望んではいないのだ。だからわが国を自国につなぎ止めておこうと、毎年経済援助で60万トンの原油を格安の価格で提供したり、無償食糧援助にも応じてくれると言うわけだ。中国の意図は、わが国が崩壊もせずさりとて自由主義諸国の仲間にも入らず、中国の衛星国として存在することが望みなのだ。これはロシアとて同じことだ。それに近年日本との間にやっかいな拉致問題が勃発した。ごれも誤算だった。日本側は、最初の発表と解放で納得するものだと思っていたが、わが国に抗議こそすれ感謝はなかった。そして第2第3の解放を求めてきた。それを世界中の人権団体が後押しをする。これは戦時中の日本軍の残虐行為を喧伝しても、その事実を過小評価することは出来なくなった。それに何も拉致問題は対日本だけではないのだ。ここで甘い顔をすればますますわが国は世界から糾弾され、逆に莫大な補償を求められるかも知れない。それではわたしの、党での立場が保たない」。

徒党を組んで、党要人とおぼしき老人たちと軍服姿のこれも老人たちがどやどやと入ってきた。

最前列の男が、

「貴殿がカイダ・シンイチロウか」、と聞いてきた。海田真一郎は相手の目を見ながら相づちを返した。

「わたしは党総会議長のロ・ショーバンだ。われわれの来賓館までお越し願いたい。その前に」、

といって二人の若い兵士と医務官に目で指図した。すでに何かが取り決められていたのだろう。それまでいないかのように扱っていたパク・ジョンイルに対して服を着るように促した。無惨な姿のパク・ジョンイルも少しは威厳を取りもどしたかに見えたが、次の瞬間ロ・ショーバンはパク・ジョンイル同志を拘束しろと命じた。自分の目論見と事が逆行しだしたパク・ジョンイルは抵抗し、早口で命令調のことばを発したがロ・ショーバンは無視した。そして無意味に騒ぎ立てるパク・ジョンイルに、先ほどの医務官が服の上から薬物を注射した。ほどなく彼は二人の兵士の間で、軟体動物のように床に崩れ落ちた。

「いずれこの男の処置には立ち会わせる。早速ご同行願おう」

事の成り行きを先ほどから不安な目をして見ていたメ・ユンジュンに視線を戻して、海田真一郎はロ・ショーバンに言った。

「貴国のこの女性を貰い受ける」

「それは必要絶対条件に入っていなかったが」

「わたしが今そう決めた。これが了承されなければ同行に応じることができない」

「このことは米国大統領に通告してもよいのか」

「そう理解していただいて結構だ」

「分かった許可しよう」

メ・ユンジュンの瞳に喜びが戻ってきた。このまま置き去りにされたら、たぶんメ・ユンジュンは国家機密を知ったことで殺害されたことだろう。

「もうひとつお願いしたい。この女性に貴国の若い女性が着けているような普通の衣服を用意していただきたい」

ロ・ショーバンは傍らの女官に指示した。海田真一郎を取り囲んでいた党と軍の要人はひとことも発言しないが、明らかにジュリア・ジョーンズ大統領の勅書が効いているようだった。建物の前には十数台のジルが待機していた。朝日を浴びて外の空気を何十時間ぶりかに吸った海田真一郎は、メ・ユンジュンとしばらく辺りを見回してから車の後部座席に乗り込んだ。車列は静かにピョンヤン市の中心部へ向かって進み出した。途中、朴日成広場に通りかかった。ここでイ・ヒョングとリョ・テクが身を賭してパク・ジョンイルにたち向かっていったのかとしばらく感傷的になっていると、メ・ユンジュンが心配そうに海田真一郎の方を見ていた。何でもない。この国の愛国者がつい最近ここでふたり亡くなったんだと説明したが、メ・ユンジュンはキョトンとした顔をしていた。館を出るとき、大勢のスタッフに見送られる形になったが、その中にメ・ユンジュンの仲間たちもいた。メ・ユンジュンが党の要人たちと見知らぬ外国人と共に貴賓のように扱われるのを見て不思議な顔をしていた。なぜなら、もうメ・ユンジュンは彼女らの中ではいなくなったも同然だったからだ。たぶん、今日の朝パク・ジョンイルの部屋を出てくるときには黒い死体収納袋にはいって出てくるか、幸運なら救急病院のタンカに乗って出てくることを予想していたからだ。たぶん、彼女らも何が何だかわからなかっただろう。車は政府要人の官舎群を通り過ぎ、端正なたたずまいの別荘風の建物に到着した。ここでも警備陣は目立たないようにではあるが、要所要所に配置されていた。

通された部屋はたぶん友好国の高官を歓迎するためのものであろう。豪華な内装に、海田真一郎には縁のないものだが、一流のたばこやワインが用意されていた。そして必要なことがあればこの女性に申し出るようにと、中年の女性を紹介した。目の配りようからして、この女はただ者ではないと見た海田真一郎は、ひとつテストをした。

「ワシントンポストと朝日新聞の最新のものが欲しい」

一礼をして出ていったが5分もしないうちに帰ってきた。手にはワシントンポストと朝日新聞の当日版が握られていた。朝日新聞の記事には大々的に例の「東京駅近郊の毒ガス処理」の記事が、しかしながら抑制のきいた内容で報じられていた。ワシントンポスト紙には、ニューヨークのU・Sコートハウスに窃盗事件が発生したが被害はなかったという記事と、先に計画されていた裁判所の内装工事の件は、時期尚早との市民の申立により無期延期になったとの小さな記事が掲載されていた。言伝も持ってきた。明日の9時、北朝鮮政府として統一した回答出すとのことで、それまではこの邸内ならどこでも自由に行動してよいとのことだった。

やっとくつろぐことが出来そうだ。隣の部屋でメ・ユンジュンが怪しげなドレスから普通のワンピースに着替えてきた。なかなかの出来映えに、久しぶりに海田真一郎の口元がゆるみ、はにかむメ・ユンジュンによく似合うと讃辞を伝えた。

翌朝7時、朝食とは思えない豪勢な食事を出された海田真一郎とメ・ユンジュンは、テーブルに盛られているものを見ただけで胃袋が圧倒される思いだった。これを国の家族に一度でいいから食べさせてみたい、これはメ・ユンジュンの漏らした願いであった。海田真一郎はきっとそうなる、そう遠からぬ時期にと言ってメ・ユンジュンを慰めた。8時過ぎに官邸の前に迎えの車が到着した。相変わらず前後を警備の車が囲んでいる。

これからわたしは党の要人と会ってくる。あなたはここでわたしの帰りを待っていなさい、と海田真一郎が言ったら不安になったらしいメ・ユンジュンが、わたしも一緒に行ってはだめかと言い出した。これからのはなしの内容は、彼女にも聞かせられないことだった。彼女が恐れているのは、海田真一郎の留守の間に、自分が何処かに連れて行かれるのではないかという恐れだった。それを察した海田真一郎は例の女を呼んだ。その女は即座に慇懃な顔をして、

「なにかご用ですか」と伺い出た。

「あなたの名前は?」

「リ・ションシと申します」

「では、リ・ションシ、わたしは党の招きでこれから出かける。この女性メ・ユンジュンを残していくのであとの事を頼む。あなたも知っているように、このメ・ユンジュンは貴国の共産党議長ロ・ショーバンよりわたしが預かった女性だ」

リ・ションシはまた慇懃にうなずいた。海田真一郎は噛んで含めるようにこう言った。

「もし、わたしが帰ってくるまでにこのメ・ユンジュンに事故でもあったら、あなたに責任を問うことになる。その意味は分かっているな。例えば、転んだとか茶のお湯が熱すぎてその拍子に、と言うようないい訳は聞きたくない」

そこで始めてリ・ションシの顔に恐れの表情が表れたのを海田真一郎は見てとった。そしてメ・ユンジユンの方に向き直って、大丈夫だと顔で合図した。

党本部の楕円のドーナツ型テーブルの中央に、共産党議長が座っている。その右側に、党の序列順と思われる人物たちがその地位に従った順番に並び、議長の左側には軍の重鎮たちが、これも地位や権力の順に並んでいる。このパク・ジョンイルに言わせれば、二級品の彼らがこれからこの国を動かして行くのだろうが、願わくば、無謀な運転はして欲しくないものだ。その背後には、その要人を補佐するスタッフとおぼしき人間が控えている。その真っ正面に海田真一郎が座った。どの面も緊張しきっているが彼らの結論は出ているようだと思った。総勢100人は超えると思われる人間の目が海田真一郎に注がれている。しばらくの沈黙のうちにロ・ショーバン議長が口を開いた。

「この場は、アメリカ合衆国大統領ジュリア・ジョーンズ氏よりの勅書に対する、わが北朝鮮人民共和国の国家としての回答の場である。なお、ジュリア・ジョーンズ大統領の特使としてここにカイダ・シンイチロウ氏を招いた。最初に断りおくが、今回の議事ないし諸行為は一切記録無用。これは両国の要望でもある。従って、ここにお集まりのひとり一人がその証人である。異存はないか」

全員の手が上がり、海田真一郎にも促しの視線があった。彼も手を挙げて同意の意を表した。

「では早速」と言って、古風で頑丈なドアーを背に警護しているものに向かって、合図を送った。程なく、中から車いす姿の人物二人が若い兵士に押されて会場の真ん中の、しかもカイダシンイチロウの真ん前に引き出された。ひとりはパク・ジョンイル。かなり憔悴しきっているように見受けられた。いつもの彼のスタイルであるジャンバータイプの作業服を着ている。彼はこうやって、どう猛で浪費に明け暮れている自分の本性を、国民の目からカムフラージュしているのだ。パク・ジョンイルは、かなり尋問を受けたと見えて、眼鏡の奥の視線はうつろに見えた。もうひとり男が車椅子に座って連れてこられたが、この男の顔は黒い頭巾で覆われていた。

再び議長が口を開いた。

「この度の貴国及び日本国に対する核による脅迫は、このパク・ジョンイルとその僅かな側近がやったことで国家としての北朝鮮人民共和国とは無関係だ。ここに集まっている軍と党の指導者たちのだれもこの度の計画に関わった者はいない。だが、パク・ジョンイルが紛れもなくわが国の領主であることもまた事実だ。従って、かかる事態をしでかしたパク・ジョンイルへの報復として、貴国がわが国に対して反撃を示唆することについては理解できる。しかし賢明にも、貴国の大統領はその経緯を知るに及んで、わが国に猶予を与えた。わが党と国家はそれに感謝すると共に、貴国の要求には誠意ある対応をする所存である。ジュリア・ジョーンズ大統領の要求の第一項は、パク・ジョンイル総書記の抹殺であったが、昨日開廷したわが朝鮮人民共和国秘密裁判による判決は、国家をかかる危険にさらした罪は国家反逆罪に相当し、死刑を宣告した。従って、アメリカ大統領の要求によるのではなく、わが国が独自に、パク・ジョンイルをこの場で処刑する」

この時になってやっと我にかえったようにパク・ジョンイルがしゃべり出した。

「わたしを処刑するのだと、おもしろい。出来るならやってみろ。わたしを殺せば今の北朝鮮は保たないぞ。わたしがいなくなれば国民は支柱を失い、国内は混乱し収拾がつかなくなるくらいお前たちにも分かっているはずだ。いくら共産党に権力が集中していようが、軍と警察が威力を振りかざそうが、末端のパク・ジョンイル信仰は一朝一夕で出来上がったものではない。それがわが国ではどれほどの政治的意味を持つのか知っているのは、このシステムを作ったお前たちのはずだ。民衆も軍の一兵卒も末端に行けば行くほど、このパク・ジョンイル将軍様の偉大さは行き渡っているはずだ。何十年にもわたって、わが父朴日成の時代から教育してきたからな。我が父が死亡したときには私という代替わりがいた。それが今回後継者もまだ正式に育っていない中で突然死亡したとでも発表してみろ、国内は大混乱に陥り、国政は長い間麻痺するぞ」

海田真一郎はパク・ジョンイルの演説を黙って聞いていたが、総会議長のロ・ショーバンが微動だにせずこれも黙って聞いているのには何か訳があるのだろうと推測した。序列順に並んでいる面々の顔にも緊張の中にもゆとりが伺えたのだ。議長が激しい声で言った。

「言うことはそれだけか」

口角泡を飛ばして叫いていたパク・ジョンイルは、ロ・ショーバンンの威厳のある声に黙ってしまった。続けてパク・ジョンイルに言った。

「この世の見納めにいいものを見せてやろう。その覆いを取れ」

傍らにいた兵士が、パク・ジョンイルの隣の車いすに座っている人物の黒い頭巾をはぎ取った。なるほど、こういうことだったのか。並んでいるふたりはうり二つ。一卵性双生児よりも、もっと言えばクローン人間とでも言えるほど似ている。たぶん腕のいい整形屋がやったのだろう。社会主義国家で整形手術とは場違いに思うかも知れないがさにあらず、社会主義の国の方が盛んなのだ。それは国防上から必要とされたことでもあった。替え玉を今回のように多数造ったり、面の割れた諜報員の顔を新しくするのに必要な技術なのだ。真っ青になったパク・ジョンイルはもがきながらなにやら叫びだしたが、背後の兵士がスタンガンらしきものを首筋に当てて黙らせた。

「ではこれからわが国家の名の下に、パク・ジョンイルを国家反逆罪で処刑するので、証人としてアメリカ大統領に伝えて貰いたい」

「承知したがその前に、パク・ジョンイルを起こしてもらいたい。そして左股の傷を確認したい」、と海田真一郎が応じた。再びロ・ショーバンが目で合図し、スタンガンが首筋に当てられた。パク・ジョンイルは再び意識の世界に呼び戻され、きょろきょろと辺りを見回し、自分の置かれている状況を把握しようとしたが、いきなり、二人の軍服姿の若者がパク・ジョンイルの左足のズボンを足の付け根の付近から引きちぎった。それで状況を完全に理解したらしく、顔をしかめた。パク・ジョンイルの股には昨日海田真一郎がつけたナイフの刺し傷が黒々と残っていた。海田真一郎は納得の視線を議長に送った。

それと同時に、処刑にかかれ、という命令一過、二人の医務官がパク・ジョンイルに近づき、彼の腕の静脈に致死量のカリウムを注射した。蚊が刺すほどのちくりとした痛みの他に苦痛は何もないはずだが、記憶がだんだん薄れていく。彼は六十有余年、父朴日成の親の七光りに守られて、社会主義を標榜する国家としてはあり得ないはずの世襲という驚くべき手段で、国家元首の地位を手にした。しかしこれは、共和国国民にとっては最悪の選択であった。その独裁ぶりは近隣諸国に鳴り渡るほどの徹底ぶりで、歴史問題では常にやり玉に挙げている戦前戦中の「日帝」時代の所業もはるかにしのぐ程だった。彼の父親が提唱したチェチェ思想(主体思想)は、国民を飢えと思想的不自由さという物心両面で塗炭の苦しみを課したが、その息子はその上に、自分と僅かの取り巻きには夢のような生活を約束する代わりに、民衆には、父親以上の恐怖政治で応じた。その反面、国民の思想教育は徹底していて、国民は知らず知らずに金王朝を賛美することに慣らされ、かれは国民から神のような存在として恐れ奉られることに成功した。ロシアにおいても中国においても、個人崇拝はここまではいかなかった。それは社会主義の理念がかろうじて生きていたからであり、人民革命の対極にある一党独裁の弊害がこの国において見事に開花したというわけだ。ソ連においても統制の厳しいブレジネフ時代でも、市民の間には指導者を揶揄するジョークは数多く見られた。例を引くと、「ブレジネフはバカだということを国外に漏らしたヤツが捕まったんだってなあ。ヘー、で何の罪だい。それはお前決まっているだろう。国家指導者に対する不敬罪だよ。それに、もうひとつあるんだ。ヘー、それは何だい。それはお前、国家機密を漏らした罪に決まっているだろうが」。

ソ連時代のスターリン、共産党独裁時代の毛沢東、ルーマニアのチャウシスク、カンボジアのポルポトそしてこのキム・イルソンは戦後の社会主義国家五大あだ花だ。そして最後まで残ったのがパク・ジョンイル北朝鮮国家首領。その彼がいま、本人にとっては誠に不本意な形で最後を迎えようとしていた。

カリウムを大量に静脈注射されたらどうなるのか、科学音痴のキム・イルソンにもわかる。まもなく終わろうとしている自分のいのちを前に、何か自分なりに満足できる記憶はないものかと目まぐるしく頭を回転させたが、パク・ジョンイルが思いつくのは、人民の判で押したような型どおりの拍手の波に、これまた無表情に答えている自分の姿だけであった。それに続いて劇薬のために記憶が遠のく脳裏には、今まで自分の地位を危うくするとの理由で、粛正に粛正を重ねてきたかっての「同志」たちの顔、自分の「趣向」のために若くして命を落としていった女性たち、それに血を分けた肉親たちが無表情に、その結果を刈り取らされている自分を見ているような気がした。彼はこの期に及んで、何か救いはないものかと必死に記憶の中を探し求めたが、チェチェ思想の他には思い浮かばなかった。しかしそれは、これから訪れようとしている彼の行く末に対する不安と恐怖を取り去るにはあまりにも無力な思想だった。そしてパク・ジョンイルは、どこまで行っても底の見えない闇に向かって永久の旅を続けていった。

もがくパク・ジョンイルも次第に動きが散漫になり、やがて動かなくなった。それを確認した医務官は、まず聴診器をパク・ジョンイルの胸にあて、次に自分の息を吹きかけ袖で拭った鏡をしばらく彼の鼻に当て曇りがないことを確認し、議長に合図を送った。あっけない最後となった。海田真一郎の方を向いたロ・ショーバン議長が、

「あなたも確認するかね」、と尋ねた。

「いや、その必要はなさそうだ」、と答えて、「ひとつ尋ねたい」と言った。

「その替え玉をどうする気だ」、

うなずいた議長は、

「先ほどパク・ジョンイル本人が演説したことと関係がある。このまま領主が突然消えることは国家にとってかなり危険であるとの考えがわれわれの一致した意見なのだ。その点をあなたの口から貴国の大統領に伝えて欲しい。勿論、われわれはいつまでもこの替え玉を利用する気はない。やがて穏やかな形で集団体制に移行した段階で、替え玉には病死してもらう手はずだ。それまでの時間を我々に与えて欲しい。勿論、後継者にはパク・ジョンイルの息子たちの世継ぎは考えていない。それは約束しよう。その点を納得して貰えれば、大統領が指摘したその他の事項は全て受け入れよう」。

あっけなく他の要求は片づいた。ロ・ショウバン議長は続けた。

「最後に、これは北京とモスクワとソウルには極秘事項と言うことも忘れないでもらいたい。わが国は、彼らとの変わらない関係がこれからも必要なのだ。彼らに不要な動揺は与えたくない」

海田真一郎は、承知した、と答えてその場を立った。

一大イベントはあっけなく終わり、ロ・ショウバン議長以下党の要人に三軍の長たちがそれぞれ退出していく中、会場に最後まで残されたのは、他ならないパク・ジョンイルの亡骸だった。その遺体を、まるで粗大ゴミでも扱うように、無造作に台車に乗せて運び出そうとする下級兵士の姿を見て、海田真一郎は不思議に思った。

この国では感情も良識も喜怒哀楽さえ国家にコントロールされ、その全てに優先するチェチェ思想のために人民はロボット化されているようだ。そしてパク・ジョンイルは自分が造ったロボット集団に自分が殺される羽目になろうとは、夢にも思ってもいなかったことだろう。この時点で、彼はパク・ジョンイルではなく、ただの物と化したのだ。恐らく彼は、ピョンヤン近郊の無縁墓地に、ひっそりと葬られることだろう。手向けられる花もなしに。

明くる日曜日の人民大会堂前の広場では、パク・ジョンイル総書記がひな壇に現れた。それに応えるかのように広場に集まった10万を超える民衆は、一様にパク・ジョンイル領主様を讃辞することばを繰り返している。中には遠くて芥子粒のように小さくしか見えないパク・ジョンイルの顔を拝んだ感激に、ハンカチで目頭を押さえている女性もいる。両サイドでは色つきのプラカードで、パク・ジョンイルの偉業を人文字で浮き上がらせては消し、また別の誉れの言葉を浮き上がらせている。これらの光景はいつもと変わらない光景ではあったが、ひな壇の上の面々は、どことなく覚めいているように見えた。

そして当のパク・ジョンイル本人は、直立不動のまま、決して民衆に語りかけることはなかった。

    *******

2007年10月29日 (月)

永き眠りの後に#37-38

デッサン37

午前2時四〇分、東京駅から全ての人間が引き揚げることになった。表向きは地下ホームの改修に伴うガス本管の移設ということで、駅員、関連会社や民間会社の職員の全て、用心のために駅舎を離れるようにと言う通達が駅長からきた。また、夜間も東京駅を通過する列車があるが、その日には最寄りの駅で朝の5時まで待機と言うことも伝えられた。駅員の中には、こんなに大工事であるならば年間予定表に載せるべきで、突然の「大工事」を不審に思う者もいたが駅長命だったのでしぶしぶ従った。実は駅長もその真意については知らされてはいなかった。ただ、重大な捜査をする。人命に危害が及ぶことも考えられるので、という運輸通産大臣を通しての通達で、駅長も半信半疑ながらこれに従ったまでだった。責任上駅長以下最低限の人が見守る中、重装備の自衛隊に真っ白な防護服をまとった身元不明の人間に警察政府関係者、それに外国人とおぼしきものも数名加わっているのを見て、一体何があるのかとかれらはいぶかった。

その前に、在郷の各国大使館には極秘に東京を離れるようにとの外務大臣直々の要請があった。表向きはテロの危険という名目だったが、核を使ったテロとはふれてなかった。それでも何かあると読んだ各国の大使館は早急に行動を起こした。あとは東京の住民だが、幸いに真夜中でもあり、東京駅の半径五キロ界隈に住んだり在所している推定人数は昼間の一〇分の一の二〇万人。この人々を秘密の内に移動させるのは不可能だ。最後に皇居には、大山一郎総理大臣が直々に出向いて、天皇家にはしばらく伊豆のご用邸と那須のご用邸に分散して避難していただくことで了解を得た。

久しぶりにあった大家と矢崎は再会を祝うにしては苦い酒をあおりながら、ここ2,3日の政府や警察の動きについて情報を出し合った。朝日の大家が切り出した。

「矢崎さん、あんたは福岡に流されてあまり情報が入らないだろうが、こちらでは大きな動きがあったらしいよ」

「何だいそれは」

「カンビールを見つけたらしい」

「ほう、それでどうした」

「その先はまだ不明ですが、在京の大使館の動きもある。ほとんどの大使館が留守番を残して大使や書記官とその家族が示し合わせたかのように九州や北海道に視察旅行に出かけたとのことです。こんなことは僕の記者生活でも初めての出来事です」それに、と矢崎は付け足した。

「その2日前、自衛隊の大型ヘリコブター3機が皇居から飛び立ちました。どう思います」

「つまり、見つけたカンビールを処理するわけだな」

「どこか太平洋のど真ん中でやればいいものを、何でこの人口の密集している東京でやるんでしょうね」

「分からんがたぶん、動かしたら危険だからだろうな。もし、失敗したら東京の住民2,30万人が道連れになりますよ」

「われわれもな。政府も馬鹿なヤツばかりではない。何か考えがあるのだろう」

「そうならいいが・・・。ところで、福岡にいながら何かいいネタでも掴んだのか矢崎さん」

「俺の後輩でワシントン駐在の特派員やっている男がいる。山室というヤツだが、その男が妙なことを聞き込んできた。これは秘密でも何でもないんだが、ニューヨーク中の新聞が、連邦裁判所の模様替えを全面に写真入りで掲載したとのことだ。その内容だが、俺も取り寄せて読んでみた。3日前のことだ。記事の内容は要するに、裁判所の地下が古くなったので、内装工事をする、というだけのことで別段記事にすることもない内容だった。それで勘の鋭い山室が言うことには、これは誰かにあの建物に手を加えるぞ、ということを示したかったのではないか、というのだ」

「というのが、アメリカの新聞はそれぞれに特徴をこれ見よがしに出すのが普通だが、この件に関してはおしなべて全紙同じ内容だというのだ。おかしいとは思わないか。それで俺はピンときた。これは誰かをおびき出す餌だと」

「なるほど。そして、これほどの大々的な報道はあの核爆弾以外にはないと思ったのだ。つまり、アメリカさんも確信に近づいたと」

「俺たちはどうする」、と大家が思い詰めたように言った。

「道新の檜山のことを覚えているか。ヤツはカンビールについて核心を掴んだので消されたと見た方がいい。で、誰に消されたかだ、どう思う」

「おれは国家の命によってその筋に消されたのだろうと思う。例えば内閣調査室の誰か」

「ひとりの同国人を殺害するほどまでして隠したい事実とはカンビールの情報以外に何がある」

「それはおれも考えたよ。この事実はいずれ明らかになる。つまり、檜山はなぜ死ななければならなかったのか、その理由も明らかになる時がくるだろう。その時に、命令を下した人物に聞いてみたいものだ」

「俺たちは、かなり核心に迫っているが証拠を掴んだわけではない。俺たちが今騒ぎ出せば、大新聞は載ってこないかも知れないが、三流新聞は載ってくるぞ。そして、波紋はやがて新聞全体に。その頃には日本中が騒然となって、もう警察力も自衛隊の力を持ってしても押さえきれないだろう。政府の発表を、誰も信じないだろう。その結果どうなると思う。核爆弾が炸裂しなくとも、日本は崩壊するかも知れない。金のあるヤツや伝のある人間は安全な海外に逃亡するだろうし、少なくとも関東から離れようとする。交通は麻痺し、その連鎖で事故や災害が勃発し、社会全体が崩壊することになる。俺たちはどうすべきだろうか。こんな時のための新聞なのに、俺たちが知っていることを記事にすれば、たぶん上の人間に没にされるだろうが、もし出来たとして、それを記事にすることが俺たちの使命だろうか」

その時大家の携帯が鳴った。デスクからで、至急総理官邸へ直行しろとのことだった。理由は緊急の記者会見が午後九時からあるとのことで、先方は俺を指名してきたそうだ。

「即座に俺もいく」と矢崎は言った。

「あんた記者証はもっているのか」

「福岡支局のものだが、まあ当たって砕けろだ」

首相官邸では新聞各社の車やテレビのキー局の中継車がずらりと並び、それを警察と自衛隊が取り巻いている。いつも報道を一手に担当する篠崎百合子は、既に正面の会見台に付いていた。東京在住の海外特派員も合わせて、報道陣の数は一〇〇〇名以上になり、全員が会場に入いりきらないので各社二名の制限が加えられた。それにしても警察と自衛隊は、警備がいささか過剰ではないか。それともそれに匹敵する発表があると考えるべきか、集まった報道陣の中からもこの突然のしかもこの異常ともいえる警備について諸説がでた。

司会役の報道官より、

「ただいまより日本政府の重要報告があります。各新聞テレビの方々は一切記録も写真撮影も控えてください」

記者連中の中からどよめきと不満の声が上がったが、次のことばで一応は治まった。

「その代わり、内閣府より記事の内容について、概略説明された文章をお配りします」

記者同士、何事かと噂し合ったが、大家や矢崎が掴んでいるようなネタはまだ他の記者連中は知らないようだった。ただ毎日の杉山が矢崎にすり寄ってきて耳打ちした、

「どうも政府はとてつもない秘密を抱えているらしい。それは北朝鮮と関係があると自分は睨んでいる」と明言して、

「あんたはこの件について何か知っているか」、と言ってきた。

矢崎は、「今回の発表を聞けばあんたの疑問も晴れると思うよ」、といって杉山に怪訝な顔をされた。

矢崎も大家も、今晩のような篠崎百合子の緊張した顔はこれまで見たことはなかった。篠崎は一語一語ゆっくりと、自分にも言い聞かせるように語り出した。

「お集まりのみなさん」、一呼吸置いて、

「今晩お集まりいただいた理由は、日本政府は是非皆さんのお力を借りなければならない事態になったからです」、と語り出した。

「いまからお話しすることは、後でお配りする内容以外絶対に報道して貰っては困ります。しかし、協力をお願いするあなたがたには、真実の全てを語っておかなければならないと日本政府は決断したのです」

一同は静まりかえって篠崎百合子の次のことばを待った。内閣官房副長官篠崎百合子はコンベンションルーム全体を見渡してから、記者たちが驚愕するような内容を語り出した。

「みなさん。日本国は、ある国家指導者によって核爆弾により脅迫を受けています。具体的に言いますと、東京のある公共の場所に三〇キロトンの核爆弾が仕掛けられていました。その核爆弾と工作した人物は当局の手で押さえてあります」

オーッと言うどよめきと安堵がわき起こったが、次の篠崎百合子の報告でまた不安に駆られてしまった。

「核爆弾は発見しましたが、その爆弾にはタイマーと位置確認作動スイッチという爆発条件を設定するスイッチがあり、発見時にはタイマーは未作動でしたが、位置確認作動スイッチがオンになっていました。わかりやすく言うと、タイマーは未作動ですので急に爆発することはありませんが、位置確認作動スイッチは、セットした位置を正確に記憶していまして、これを動かせば半径五〇メートルを超えた段階でスイッチが入ることが分かりました。さらに、この位置確認作動スイッチの寿命は五百時間しかありません。その意味は、放おっておいたら500時間後に劣化し、その段階で位置がずれたと判断され、核爆弾のスイッチが入る仕掛けになっています。つまり、二重になっているのです。そのことはこの爆弾をセットした者たちも知りませんでした。この爆弾を設計したロシアの資料により知らされたことです。そして現在既に、五百時間の内四百時間強が過ぎてしまいました。現在の状況はいま話したとおりです」

会場は騒然となった。しかし、誰も敢えて質問する者はなかった。篠崎百合子は続けた。

「日本政府は決断しました。あと48時間後にこの小型戦術核のタイマーを停止するための作業をします。しかしそれは、かならず成功するとは限りません。うまくいって五分五分の成功率でしょう。そこで、皆さんにご協力を仰ぐことになったのです」

一呼吸置いて、篠崎百合子は話を次いだ。

「すべてのメディアはこれからお配りする内容を正確に掲載し、報道していただきたいのです。必ず守っていただきたいのは、これ以上の表現でもこれ以下の表現でもなく、このままの内容を報道するということを確約していただきます」、

といって田中寛一二等陸佐が作成した文面A4二枚を配りだした。

「また、各テレビのキー局は、決められた時間にお配りした内容を緊急ニュースとして流していただきたいのです」

・・・そこではじめて質問の手が上がった。

「状況は分かりましたが、なぜもっと早くわれわれに知らせなかったのですか。早ければ早いほど混乱も避けられたでしょうに。たった四十八時間の間に都民を避難させるなんて無理ですよ」

「おっしゃる意味は重々分かっていますが、これが我々に出来た精一杯の方法だったのです」

「それだけの説明では納得できません。背後に、他に何かあるのではありませんか」

篠崎百合子は、横に控えているアメリカ人とおぼしき人物の方をチラッと見て、了解を求めたようだった。矢崎が大家に耳打ちした。

「あれはアメリカ大使館の武官でジョン・ワイルダーだ。アメリカの大使館員が何で日本政府発表のひな壇に乗っているんだ」。篠崎は答えた。

「ごもっともです。その質問について、アメリカ政府の了解を得ましたので理由を説明しますと。実は、日本よりも早くから、同じ手口で、アメリカも核爆弾で脅迫されていたのです」

会場にまたどよめきが起きた。信じられない話だ。核超大国であるアメリカを核で脅迫するなんて信じられない、それが記者団の大方の受取方だったが、篠崎百合子は騒ぎを制して再度言い放った。

「これは事実です。そしてこの2つの国の核は連動していました。どちらかの核を撤去すれば、もう一方の核を炸裂させる、そう先方は言ってきたのです。日本とアメリカは同時に探索しなければなりませんでした。それも極秘の内に。幸い、アメリカも核爆弾と工作員を押さえました。その時点でアメリカは安全になりましたが、日本に設置されていた核爆弾はより複雑で危険なものでした。つまり、両方の核を同時に押さえない限り、報道は出来なかったのです。それが遅くなった理由です」

そこで毎日新聞の大山が手を挙げた。

「で、そのアメリカと日本を核爆弾で脅迫した国はどこです」

「パク・ジョンイルです」

大山が国はどこかと聞いたのに対して、篠崎百合子が指導者の名前を挙げたのに、ハッとしたのは大家も矢崎も同じだった。やっぱり、この計画は、北朝鮮が国家として計画したのではなくて、パク・ジョンイルが側近に指令して実行した、個人プレイだったのか。ラングーン事件の再来だな。しかし、北朝鮮としてもここまできたら、国家として後戻りは出来まい。どうするつもりか。しかし、それは後の問題だ。まず、東京のある地点にある核を無効にするために、そしてその時のために避難をどうするのか、それにわれわれ新聞を初めとした報道機関がどう協力できるか、それが目下の問題だ。

デッサン38

東京駅地下ホームでは正確な位置測定器で、ロシアの偵察衛星が受けた東経と西経の数字を頼りに位置を割り出そうとしていた。地下五〇メートルの深度では、慣性誘導装置付きの位置測定しかできない。最大誤差は50センチ、ロシアの偵察衛星の誤差と合わせても誤差2メートルの精度だ。測定器の信号を頼りに行き着いたところは、最深部22番京葉線地下ホーム横を通る空調用の巨大なダクトだった。目標物は簡単に見つかった。ダクトの点検作業用ののぞき穴に平行するようにダクトの内側にアルミホイルに包まれてカンビール型爆弾はあった。ホイルの上部は空調の強風のために破れていた。もし、この破れがなかったならば電波が遮蔽されて偵察衛星も察知できなかったことだろう。幸運だった。自衛隊の爆発処理班が取り外し、ホーム上のテーブルの上に置かれた。位置センサーのためにあまり移動は出来ない。周りには六十人の専門家や政府関係者、自衛隊警察が取り囲んでいる。これからはセルゲイ・バッハービッチの出番だ。セルゲイは思わず息をのんだ。底の方を見たら、二つのスイッチとパズルの模様がむき出しになっていた。位置確認作動スイッチを入れたときに表面の蓋は取り外されたままになっていた。ジュ・デジュンと部下を尋問したとき、彼らがこの戦術核K型についてどれくらい予備知識があるのか、セルゲイは質問してみた。結果は、ほとんど知らされてはおらず、ただスイッチの入れ方と、隠す場合のアドバイスくらいのものだった。取り調べの最中に、セルゲイは模擬核爆弾を見せて、ジュ・デジュンがどんな反応をするのか観察したが、別にあわてることもなかった。と、いうことは、位置作動スイッチを入れた結果がどうなるのかの詳細は知らされてはいなかったことになる。

そこでアクシデントが起こった。ジュ・デジュンは、もう観念したと見た警察官の隙を見て、婦人警察官のけん銃を奪い反撃に出たのだ。手錠をかけられたまま手洗いを要求したので、東条たちは婦人警官を付き添わせて許可した。トイレの中で二人きりになると、いきなり婦人警官の脇腹を蹴り上げ一撃で倒した。手洗いにしては時間がかかりすぎると思った取調室では、もうひとりの婦人警官とロシア大使館所属の「商業調査員」ソニア・ヤノーシュが駆けつけた。不安は的中した。そう広くもない女性トイレの中では、先ほど付き添っていた婦人警察官が倒れていた。そして窓が開かれており、3階から飛び降りたらしい。パニックになった婦人警察官は急いで係官を呼びに出ていった。ソニア・ヤノーシュは商売柄それを疑った。人の気配を感じたソニアはトイレのドアーをひとつずつ開いていった。ロシア国内であればトカレフで武装できるのだが、ここは日本だ。武器の携帯は許されていない。素手での作業だ。最後の扉に手をかけようとしたところでいきなりドアー越しに発砲され、銃弾はソニアの胸を貫いた。至近距離からの発砲は、木製の薄いいドアーは何の障壁にもならなかった。ジュ・デジュンは最後まで諦めるつもりはなかったのだ。この資本主義のブタどもに膝をかがめるくらいなら死を選ぶ。これはジュ・デジュンの信条であった。ただし、一暴れしてから。防弾チョッキに身を包んだ警察官と、ドアー越しに睨み合って30分が過ぎた。開かれた窓からは人質になった婦人警察官と銃弾に倒れたソニア、それにジュ・デジュンが見え隠れする。この期に及んで、もう彼女から聞き出すものはないと踏んだ内閣調査室の東条は、ヒットの許可を与えた。道を境に、120メートルは離れている民間ビルの三階から、警視庁の狙撃班がチャンスを伺った。日本の警察は手荒なことはしないと踏んでいたジュ・デジュンは、ドアーに掃除用具でバリケートを築き、窓に近寄ってきた。スコープの画面にはっきり美貌のジュ・デジュンが見える。額に照準を会わせると、向こうがこちらを見ているのがはっきり見えた。ジュ・デジュンは笑っていた。狙撃手がトリーガーを静かに絞ると、レミントン狙撃銃の9ミリ弾は正確にジュ・デジュンの額にめり込み、後頭部を吹き飛ばし、辺りに血と脳髄をまき散らした。至近距離から発砲されたソニア・ヤノーシュはまだかすかに脈はあったが、救急病棟で息を引き取った。

「あと二時間後に作業を実行する」、と六十人の関係者を前に篠崎百合子は宣言した。

続いて、

「みなさんご苦労様でした。以後の作業を見届けるのはわたしだけで十分です。みなさんは2時間のうちに出来るだけ避難してください」と言ったが、だれもそこを動く者はなかった。

いまは時間が迫っている位置確認センサーを、何としてもこのロシア人が止めてくれるのを祈るばかりだ。そのロシア人セルゲイ・バッハービッチは、悪魔の贈り物のようなこの戦術核爆弾K型をまじまじと見た。そして自分の作業の結果でここにいる六十人はおろか、東京都民の逃げ遅れた人や気づかなかった何万人もの人が死亡するかも知れないことを思うと、頭が割れるように痛んだ。もうミーシャのことも、将来の夢も何もかもセルゲイの頭にはなかった。あるのはこのセットされたスイッチを切るための、パズル模様の移動のことだけだった。彼は、何種類もの模様を描いて自分の記憶の中にあるものと比べたが、どれもこれだ、という確信が持てなかった。セルゲイを取り囲んでいる政府関係者も、警察も自衛隊員も全ての人間の視線がセルゲイの指先に集中していた。もし失敗したら、真っ先に核の炎で焼き尽くされる人々だ。セルゲイは、今から作業を始めることを目で合図した。一同の緊張した顔が静かにうなずく。

この戦略核K型の裏側には9個のピースがあり、そのひとつひとつにも模様が刻んである。その9個のピースの位置を動かしてあるひとつの絵を5分以内に、正確に完成させる時にスイッチはオフになるのだが、セルゲイの記憶の中にあるその模様は、不思議な形をしていた。覚えにくい形だったがしかし、セルゲイはその模様を、どこかで見たような気がしていた。あれはいつのことだろうか、たぶん子どもの頃だろう。どこで・・・必死になってそれを思い出そうとしていた。熱くもないのに、さっきから汗が額を濡らし、茶色のちじり毛がこびりつく。セルゲイは無心に子ども時代の自分に返ろうとしていた。そこで何かこの模様と出会ったような気がしたからだ。とは言うもののいつ頃だろうか。それは自分の思いこみではないか。その時、割れるような頭の痛みの中で、突然セルゲイの目の前が鮮やかな光に照らされたような気がした。そう、あれはセルゲイがまだロシア幼年学校のころだった。当時の共産党政権は、表向きは自由と言いながら、実は宗教を根絶やしにしようと画策していた。共産党政権が、カール・マルクスの、「宗教は人民の阿片」という託宣を信じて、手当たり次第に教会を閉鎖していたが、その教会と関係がありそうな気がした。セルゲイが記憶している絵は、そのロシア正教会とつながりがありそうなのだ。セルゲイの子ども時代、教会は次々に閉鎖され、建物は共産党の地区集会所や図書館など公共施設に生まれ変わっていったが、その中でまだ残っていた数少ない礼拝堂に、祖母が隠れるようにして幼いセルゲイを連れて行ったことがあった。そこはロシア正教の会堂で、数人の老人とおぼしき男女が跪いていた。動くものといえば辺りを香の香りで満たしている香炉と、ろうそくの黄色い炎だけだった。まだ幼いセルゲイにとって、ロシア正教会の会堂は天国とはほど遠く、荘厳さを通り越して異様な感じを受けた。そして思ったものだ。どうしてこんな薄暗くて退屈でつまらない場所におばあちゃんは来るのだろうかと。辺りを見渡すうちに、幼いセルゲイの目は、は薄暗い会堂の中のいちばん奥の祭壇に置かれた金色に光り輝くモニュメントに留まった。幼いながらもセルゲイはその神々しさと穏やかさに、心を奪われた。セルゲイは、美しいと思った。

セルゲイが記憶している模様、すなわちロシア戦略核K型の幻のマニュアルに記されてあった模様と、幼い頃のセルゲイが美しいと思ったあのモニュメントが、頭の中でまるで引き寄せられるように近づいていった。そしてその模様がピタリと一致するような感覚を覚えた。セルゲイが9のピースを動かし始めた。5分以内に決められた模様にしなければ瞬時に爆発する。セルゲイはそれを1分たらずで終えた。あとは結果を待つだけだ。

セルゲイはその時になって始めて、集まっている人々の顔を見渡した。篠崎百合子をはじめ、東条もミハイル・ヤノーシュも、自衛隊や内閣調査室に警視庁捜査員も、一様に無言でまるで息をしていないかのように静まりかえっていた。セルゲイは自分の思いこみでなければいいがと後で思ったが、既にタイマーの操作は終っていた。もう後戻りは出来ない。ふたたび視線を核爆弾に移した。セルゲイの頭はなぜか自然に垂れてきて、テーブルに額が付いていた。そして教わった記憶もないのに、いつしか両手はテーブルの上に組み合わされ、祈りの姿勢になっていた。もうことばはなかった。それを取り囲むようにして六十人の人間も、身動きひとつせず直立して心なしか頭を垂れている姿は、それぞれが信じる神を礼拝する一場面を彷彿とさせた。そして恐らく、礼拝の対象となるものが神や仏や宇宙そのものという違いはあったにしても、これほどみんなの願いと期待が一致した礼拝は、今までもこれから先もないだろうと思われた。たぶん、無神論を奉ずる者も、この時ばかりは「知られざる神」に向かって願ったことだろう。

長いと思われた沈黙の後に、突然、爆発もかくあれかしと思えるような歓声が上がった。時計は五分を十秒過ぎて赤いランプは消えていた。核爆弾K型は、また眠りについたのだ。セルゲイ・バッハービッチは、しばらくその姿勢のまま動けなかった。その瞬間より六十人の視線はもうセルゲイにはなかった。みなそれぞれの担当部署へ、一斉に報告に追われていた。しばらくの後に、セルゲイの肩に東条が手を置いた。その手は、もう全て終わったとセルゲイに告げていた。その日、セルゲイが国を離れて二ヶ月が過ぎようとしていた。

篠崎百合子は、即海上保安庁と海上自衛隊に緊急指令を出した。内容は、新潟港を出港中の北朝鮮船籍の貨客船バン・ヨン・ジュン号を新潟港へ曳航せよ、と言う命令だった。新潟沖一〇海里で真正面から対峙した日本の巡視船はるかぜが、バン・ヨン・ジュン号の航路に立ちはだかった。当然北朝鮮高官が最大級の抗議をしたが、この時ばかりは日本側は怯まなかった。それどころか、日本の巡視船は、従わない場合は、国際条約に従って処置を取ると告げてきた。これはつまり武力に訴えるということだ。日本側は、いまでかってこれほどの強硬な通告の仕方はなかった。バン・ヨン・ジュン号も貨客船ながら小型ミサイルを始め、少量の火器を隠し持っていたが、はるかぜの背後には、ミサイル自衛艦ごんごうがバン・ヨン・ジュン号にミサイルの照準を合わせていた。いくら何でも戦争が専門の最新鋭ミサイル護衛艦には太刀打ちできない。

「船倉の荷物は返却して貰おう、それに取り調べたいことが多々ある」

と日本側の艦長は告げた。バン・ヨン・ジュン号の船長はなすすべがなかった。

すでに北朝鮮沖まで航海していた韓国船籍のタンカーにも連絡が入った。これは日本がチャーターした、北朝鮮への経済援助五〇万トンの原油の一部で、プサン5号は一〇万トンの原油をクエートから輸送中だった。命令は、即引き返せ、だった。しかし、もう北朝鮮の港は視界に入っていた。プサン5号の船長はやむなく急旋回の舵を切った。しばらくして異常に気づいた北朝鮮側からミサイル掃海艇が追ってきた。巨大なタンカーの逃げ足では1時間もあれば追いつかれる。プサン5号は、鹿児島の原油備蓄基地「日入」へ向かって全速力で走ったが、約1時間後遂に並ばれてしまった。掃海艇はプサン5号に機銃を構え威嚇射撃で停船を命じた。それでも全速力で走行中の一〇万トンタンカーは、停止するまでに一〇分以上かかる。その間、掃海艇が本気で撃ってくるのではないかと、タンカーの乗組員は恐怖におののいた。その時、タンカーと平行して走って威嚇していた北朝鮮の掃海艇のソナーが、探信音を捕らえた。これは即ち、この掃海艇を、潜水艦が、ホーミング魚雷で攻撃する時の予告なのだ。タンカーと北朝鮮掃海艇と国籍不明の潜水艦のにらみ合いが始まった。そして前方から戦闘機の機影が見えてきた。沖縄から飛来したアメリカ空軍のF15だった。そしてF15が威嚇射撃を始めるに及んで、形勢不利とみた北朝鮮の掃海艇は、次第にタンカーから離れ、港に引き返していった。そしてプサン5号の船長は、これから鹿児島までの一日の道のりは、日本の潜水艦「親潮」が警護する旨無線連絡を受けた。北朝鮮の掃海艇を海中から威嚇したのはこの潜水艦だった。計画中のものも含めて、北朝鮮宛の「経済援助」は、これで全て終止符が打たれた。日本はもう脅しに乗る必要はなくなっていた。

セルゲイはカンビール型戦術核を無造作にバッグに押し込むと、日本政府差し回しの車でロシア大使館へ引き揚げた。そのセルゲイの乗った車の前後は、パトカーが挟むようにして警護したが、そのとき自分がどのようにして帰途についたのかセルゲイの記憶にはなかった。彼は精根尽き果てて労を労らうジャースキン大使のことばも、大使館全員の賞賛も耳には入らなかった。ただ、安堵の気持ちだけだった。そして、警視庁も自衛隊も内閣調査室も、とにかく今日は祝杯を挙げたい気持ちだった。

爆弾撤去に関わった若い警察官が独り言のように呟いた。今日はどんな交通違反も見逃してやろう。今回の事件に比べたらどんな犯罪も些細なことだ。それを知ってか知らずか、日比谷公園でいつも昼間か酔っぱらっていい気分になっている浮浪者が、陽気に道行く人々に向かって紙コップのグラスを挙げていた。市民が憩う市中の公園でのこの行為は褒めたものではないが、今日の彼の仕草は時節にかなっていた。なぜなら東京が救われたのだから。

2007年10月28日 (日)

永き眠りの後に#35-36

デッサン35

カンパニーから、現地では妻帯して普通の市民として目立たない生活をするようにと指示を受けていた彼は、その指示に従って慎重に事に臨んだ。そしてこの三十数年の間、ひたすら日本市民の中に埋没してただ静かに暮らしてきた。何の命令も指示もなしに五年が過ぎることもあったしいきなり次の日という緊急な仕事に駆り出されることもあった。相手は他国の同業者がほとんどで、訓練を積んできた彼にはたやすい「業務」だったがその度に手が汚れた。日本人としての戸籍はカンパニーが用意した。これは出生地の戸籍係でも容易に見破ることが出来ないもので、彼は完璧な日本人として行動できた。それを補強するためにカンパニーが用意したプログラムは、彼の歴史を作ることからはじめられた。そのシナリオによると、彼は九州福岡の筑豊地帯の廃山になった炭坑夫の長男として一九四一年二月二一日に生まれたことになっていた。彼の父親は戦後石炭景気に湧く三井三池炭坑で坑夫として働いていたが一九六三年の坑道粉塵大爆発で四三六人の作業員と共に死亡。母は採炭された石炭の選別作業に従事していたが彼が15歳の時、結核で二年の闘病の後に死亡。兄弟は不明。その後、知人を頼り東京へ出てきたがついに会わず終いで、僅かな遺産で食いつなぎ職を転々として今は職探し中、というストーリーだ。思い出や両親の記念になる品も用意され、彼の過去一切が本物そっくりに作られた。

小さな町工場で職を得ていた頃、後日結婚することになる村山朝子との出会いがあった。朝子は、彼がはじめて心を許した人間だった。朝子との結婚は、カンパニーが指示していた「目立たない普通の市民」のためでもあったが、朝子との間に本当の人間同志の交わりが芽生えてきたからだった。しかしそれが愛や慈しみと言われる言葉で表現できるものであったのかどうか彼にも分からなかった。むしろ同業者は同じ体臭のする者を無意識に察知し惹かれ関心を払う。それは恋愛感情に何か通じるものかも知れない。無意識のうちに互いが職業柄惹かれたとしか言いようがない。結婚する以前村山の姓を名乗り北海道出身と自称した朝子は実は北朝鮮の工作員だった。後日判明した本名はチェ・デジュン。彼女も北朝鮮のある機関の命令で、日本人として市民の中に沈んで待機するのが使命だった。十数年互いが互いの「本業」を知らないまま子供までもうけてひとつ屋根の下で家庭生活を営む、こんな奇異な事が起きたのだ。最初におかしいことに気づいたのは妻の方だったがそのまま家庭劇を続行することにした。というのが、夫役の男は妻の本性を知らないという確信が持てたからだった。ということは、まだ利用価値があると理解したのだ。しかし双方に、夫婦としての愛情や親としての情愛がなかったと言えば嘘になるだろう。夫婦は互いに愛し合っていた、たぶんこれは事実であったろう。それにも増して子どもはそれ以上に愛おしかったに違いない。しかし、それ以上の情念もある種の人間たちには在るのだ。それが思想教育により強制的に与えられた後天的なものなのか、持って生まれた先天的なものなのか、それは分からないが夫婦や親子の情愛より優先させるものが二人にはあったのだ。それが不幸の始まりなのだが、「本業」において夫婦は敵同士であった。そしてそれを互いが知る日が来た。ついに彼は妻朝子を自分の使命のために殺害した。これは彼にとって闘争なのだ。互いは殺さなければ殺される状況にあり、自分の本業が筒抜けになりそうな状況にあった。それは、二人の間に生まれた娘には理解を超えた出来事であったがその現場を目撃してしまった。その後即座に冷静さを取りもどした海田真一郎と名乗る男は、また一人だけの静かな生活に戻った。

僅かの隙間に身を潜めている海田真一郎の耳に足音が聞こえてきた。複数の足音だ。女のものらしい足音も含まれている。やがて足音は海田真一郎が潜んでいる階段の隙間辺りまできて、広間に消えていった。総勢一〇人以上かも知れない。階下は以前になく騒々しくなった。至る所から命令口調の言葉が飛び、それに応えているらしい言葉が続いた。それがかれこれ1時間は続いただろうか。騒ぎはピタリとやみ平常の会話が少なめに交わされる状態になった。地下から二偕までの捜索が終わったらしい。

今度は規則正しい軍隊風の足音が階下より近づいてきた。いよいよ3階の捜索をするつもりらしい。話し声は聞こえるが内容までは分からない。最後に敬礼して踵を返してまた出ていったようだ。その後何も起こらなかった。三階は捜索しないのか。確かに三階には隠れるところはどこにもないし、捜索の最初に三階は確認済みだったらしい。確かに、五つの部屋はすべて見通しのきく部屋ばかりで、どこにも隠れようがない。唯一、彼らが気づかなかったが階段の真下に三〇センチの細長い窪みがなかったならば海田真一郎もお手上げであった。たぶん、この窪みは清掃する人間は知っていたかも知れないが警備陣には知られていなかったようだ。イ・ヒョングの手書きの図面にはちゃんと記されてあった。命拾いをした海田真一郎はこのまま夜を待つことにした。

パク・ジョンイルはたぶん三〇メートルと離れていないどこかの部屋にいることだろう。多くの足音と共にそれに付き従ってきた女性たちも別の部屋に待機していることだろう。まもなく夜の宴が始まるはずだ。ただし、今日はパク・ジョンイルもかなりショックを受けている。自分に対して公衆の面前で爆弾が投げつけられたし、核爆弾が仕掛けられたという情報もある。彼はイライラしていた。まだ彼はニューヨークでも東京でも核爆弾が撤去され潜伏していた工作員が逮捕されたことは知る由もなかった。

館内は全て警備陣が定位置について館内と敷地全体に目を光らせている。屋上にも数人が陣取っている。まだ邸内の捜索は続行しているらしい。三階だけには警備陣の気配はなかったが、階段の登り口とエレベータには常時二名づつ張り付いていた。従ってこの時点で三階に上ることは不可能になった。三階はパク・ジョンイルのハーレムなのだ。パク・ジョンイル以外は男子禁制らしい。給仕も連絡係もすべて女性の係官が執り行っていた。パク・ジョンイルは不機嫌にソファーにひとり座り、だれも近づけなかった。黙り込んだ彼は時たま独り言のようにぶつぶつと何かつぶやいていた。アメリカも日本も自分には手出しが出来ないはずだ。自分にもしもの事があれば彼らの国の最も人口が密集している地域が核の炎で焼かれる。ジュリア・ジョーンズも大山一郎もそれは見たくないはずだ。結局ずるずるとわが国の条件を呑み続けるしかない。しかし、暗殺者を送るとはどういうことだ。彼らに何か魂胆があるのだろうか。互いに核を国内に持ち込んでその威力を打ち消し合って、双方で核の撤去を内密に執り行おうとしているのだろうか。あり得ることだが、それには応じないつもりだ。チキン・ゲームは自分たちに有利だしわが国の得意とするところだ。アメリカも日本ももしも核が国内に持ち込まれたこと自体がオープンになっただけで大打撃を受けるだろう。しかし、わが国は騒然となるだろうが、彼らの国ほどの騒ぎにはならない。情報の統制はいつものことだし、国民も騒ぎ立てるほど組織力もない。問題は軍部だが、その危機をテコに、軍備拡張路線を掲示してやればかれらも納得するだろう。党は自分を解任するほどにはまとまるまい。不穏な動きがあった場合には先手を打って反対派を粛清すれば、彼らも従わざるを得まい。理屈はあとでどうにでもつく。結果良ければ全てよしだ。そのためには、いかに日本から経済援助をむしり取るかだ。それに、わが片割れ南朝鮮に秋波を送って食料とエネルギーを拠出させるか。こちらの方はもっと簡単だ。

パク・ジョンイルは少し冷静さを取り戻し、傍らのワインに口を付け、しかる後に呼び鈴を鳴らした。

海田真一郎は小型の長波ラジオディスプレイを取り出してある周波数に合わせイヤホーンを耳に当てた。長波の電波はどこにでも屈折して受信できる長所があるが装置が大きくなり携帯が難しい難点がある。この小型で手のひらにのる受信機はCIAで特別に開発されたものだった。この超長波がもっと長くなれば、水中でも電波が届くことができるので潜水艦の非常連絡用に使われている。ラジオは定時のアメリカ・デンバー気象台の観測結果を流していた。海田真一郎はディスプレイに現れたその数字の一群に注意を集中したそれはパク・ジョンイルに対するアメリカと日本の最終的な意志を表すものだった。

パク・ジョンイルが鳴らしたベルの結果、数人の女性たちが即座に現れ指示を仰いだ。いよいよ宴が始まるようだ。あいかわらず階下では多数の警備陣が巡回しているようだ。まさか三階に潜んでいるとは思っていないらしい。そのうちに宴もたけなわになった。音楽に合わせて歌や踊りを披露しているのだろうか。女達の歓声が聞こえるが、パク・ジョンイルの声はなかった。海田真一郎は、終わるのをじっと待った。時計を見ると、既に1時を回った頃、また足早に移動する多数の足音を感じた。取り巻きと女性軍団のお帰りらしい。後はパク・ジョンイルひとりか。それからもう一時間待ってから閉じてあった木板をはずし立ち上がった。思った通り警備は階下とエレベータの入り口だけだ。海田真一郎は三偕のエレベータホールと二偕へ続く階段に続くドアーを内側からロックした。これで外部から三階に入ることは出来ない。海田真一郎は静かにひと部屋ずつ見て回った。最初の部屋は今日の宴の残余が残されていた。次の部屋は女性達が控えの部屋として使ったらしい。まだ化粧と女特有の香りを漂わせていたがここにも人っ子ひとりいなかった。次の部屋の前に来たときに明かりが漏れる部屋の内側から物音が聞こえた。鍵がかかっていないばかりか、ドアーも半開きのままだった。中では軍服姿の女性士官が後ろ向きで何か作業をしていた。この女兵士が今日のご用承りらしい。パク・ジョンイルが求めることをこの女性士官が階下の担当者に取り次ぐらしい。海田真一郎は女兵士の背後から忍びより、女の首筋にトカレフの冷たい銃口を突きつけ、死にたくなかったら声を出すなと明確なハングルで言った。女兵士は氷ついたように固まって直立した。すかさず首筋に一撃を食わせて倒れるのを受けとめながら顔をまじまじと見た。まだあどけなさが残る女だった。殴って悪かったがここで騒がれたのではぶちこわしになる。その後薬をかがせて床に転がした。たぶん、朝まで目覚めないだろう。部屋の明かりを消しながら次の部屋へ向かった。

静かだ。何も聞こえてこないがドアーに触れると、鍵がかかっている。パク・ジョンイルはここにいるはずだ。鍵を開けるのは簡単なことだった。訓練では何度も鍵には対面したので一〇秒もあれば開いた。広い豪勢な部屋で薄暗かった。女の悲鳴のような叫び声はいちばん奥の方から聞こえてくる。辺りを確認しながら進んでいくと強い明かりを背に男が全裸の女を打ち据えていた。くぐもった声はこの女の声だった。パク・ジョンイルはサディストと聞いていたが、それを目の前で見ることになった。既に女の背中中に赤い鞭の跡が何本も走っている。たぶん、この女は美女軍団のひとりで今晩の生け贄に選ばれたのだろう。パク・ジョンイルはちょっとしたことで激怒したり、計画がうまく運ばなかったりするたびに犠牲者が出ると内通者の情報があったが、あれは本当だった。女が必死にこらえる唇の隙間から漏れる声を好むかのように、何度も鞭をふるった。海田真一郎はしばらくそれを観察していて、この男はこれまでに何人の自国民を自分の趣向のために犠牲にしたのだろうとか思った。女は苦痛のために吊されている両腕に自分の体重を預けながらもがいていた。それに満足したパク・ジョンイルは、今度は瀕死の女の体を正面に向けさせ、カッターナイフを手に取った。朦朧としている女の頬を冷たいナイフの腹でなで上げた。女は目を覚まし恐怖から必死にそこから逃れようともがく。うすら笑い声が聞こえる。パク・ジョンイルが笑っているのだ。無抵抗な女を傷つけながら快感を味合うサディストの典型的な姿がそこにあった。ナイフの先が柔らかな肌をつつくたびに女は大声を上げだした。なんと言っているのか分からないが命乞いをしているのは明らかだった。いくら叫んでも無駄だと悟った女は目をカッと見開き、パク・ジョンイルを憎悪の目で睨んでいる。やがて女の腹に赤い筋ができた。ナイフの刃先に少しずつ圧力を加えているのだ。苦痛に女の表情がゆがむ。もう既に海田真一郎が忍び込んでからだけでも30分は経つ。パク・ジョンイルは時間をかけてゆっくり楽しむつもりらしい。激しい痛みに耐えるかのようにくぐもる女の声を笑いながら楽しんでいるパク・ジョンイルの背後に、海田真一郎は静かに佇んだ。パク・ジョンイルは女の激しい声に気を取られてまだ後ろの人の気配に気がつかない。女はそれに気がついてますます目を見開いた。女の視線が自分から逸れて自分の背後に向いているのに気がついたパク・ジョンイルはやっと後ろを振り返った。そこにはサイレンサー付きのトカレフを構えた男が立っていた。

ことばを失ったパク・ジョンイルに、海田真一郎は尋ねた。

「パク・ジョンイルか」

相手は黙っていた。こんどは女に語りかけた。

「静かにしていればあなたに危害は加えない。あなたを助ける」

女の瞳に光がよみがえりうれしそうにうなずいた。海田真一郎はパク・ジョンイルのナイフを取り上げ、それで女を拘束していたロープを切った。女は床に悲鳴と共にくずおれたが、やがて立ち上がった。海田真一郎は女に服を着けるように促し、今度はパク・ジョンイルに向かってハングルで語りかけた。

「声を上げたかったら声を上げてもいいぞ。ここの部屋は防音らしいし、隣の兵士は朝まで眠っている。階下にはこちらから呼ばない限り誰も三階には上がってこない。おまけに三階の頑丈なドアーには内側から鍵をかけた。この部屋はまるで金庫の中だ。そこに座れ」

女の方を向いて、大丈夫か、動くことが出来るかと聞いた。女はうなずいた。では、このパク・ジョンイル総書記をこのイスにくくりつけてくれ。海田真一郎はパク・ジョンイルの顔をまじまじと見据えて言った「わたしが誰だか分かるか。・・・・・・・お前は明日の朝たぶん死ぬことになる。理由はわかっているな。アメリカを核爆弾で脅迫し、日本も核爆弾を使って物資を強要し、何十万の市民を恐怖に陥れた。明日はその代償を払って貰うぞ」

パク・ジョンイルは最後のあがきをした。

「もしわたしを殺害すればニューヨークと東京の核爆弾が爆発するぞ。分かっているのか」

ゆっくり間をおいて、海田真一郎は諭すように言った

「ニューヨークも東京も核爆弾を発見し工作員を逮捕した。もうお前の勝ち目はない」

一瞬の驚きを覆い隠して、冷静を装いながらパク・ジョンイルは形勢逆転の道を伺った、

「わたしを殺せば、ここから出ることは出来ないぞ。どうだ、取引と行かないか。わたしには自由になる金が五億ドル以上スイスの口座にある。その暗証番号を教え安全を保証しよう。それでどうだ」

「誤解しないでくれ、お前を殺すのはわたしではない。殺すのはお前の党と軍の指導者たちだ。まもなくそのことが明らかになる。わたしはただそれを確認するだけだ。アメリカの大統領よりこの国の共産党議長へファックスが入ることになっている。それには、アメリカの要求が記されてあり、もしそれを満たさなければ即ピョンヤンに核攻撃を仕掛けるという内容だ」

パク・ジョンイルは笑った。そんなことが出来るものか。

それはいずれわかる、と言って椅子の上のまるまるとした股にナイフを突き刺した。激しい痛みにパク・ジョンイルは顔を引きつらせて叫び声を上げた。

「どうだ、少しは他人の痛みが分かったか」

椅子に縛り付けられ痛みに顔をゆがめているパク・ジョンイルの横で、女の顔をまじまじと見た。自分の娘と同じ年頃であろうか、女はじっと事の成り行きを伺っていた。女の顔から感じ取られるのは、これから起ころうとしていることに対する恐怖であろうか、今の痛みさえ忘れて事の成り行きを案じているのだ。

「大丈夫だ。あなたはかならずここから出て家族の元に帰れる」と海田真一郎は話したが不安は解けなかったようだ。朝まで、指導者達が動き出すまで待つしかなかった。縛られて自分の身を不安がっているパク・ジョンイルを前にして、海田真一郎はこの娘と話したくなった。打たれた鞭の傷にナイフでつつかれた傷でいたいたしそうだがしっかりした女だと海田真一郎は思った。

「あなたはどこの生まれですか」、と海田真一郎は聞いた。

「わたしは中国との国境に近い平安北道チョンソンの生まれで、両親も兄弟もそこにいます」

「家族のことを話してくれませんか」この不思議な侵入者が思ったより歳をとっていることに驚きながらも話しだした。

「わたしの家族は、両親と兄と妹の5人家族です。両親とも集団農場で働いています。兄は人民軍で南朝鮮との対立地点で歩哨をしているそうです」

「毎日どんな暮らしをしていますか」

「わたしの子どもの頃は昼間学校で勉強して帰ったら妹の面倒を見ました。友達と遊ぶこともありましたが、お腹がすいて部屋でじっとしていることが多かったです。中学5年の時に党地区委員会からわたしにお呼びがかかりました。わたしをピョンヤンの朴日成芸術大学へ推薦してくださるというのです。その後、私たちの父上であるパク・ジョンイル総書記にお仕えできるとまで云われ、夢のようでした。両親も大変喜んで村中で自慢していました。わたしが故郷の村を離れる時にはみんながバスの停留所まで見送りにきました。わたしは両親のためにも村の人たちのためにも一生懸命に勉強して、パク・ジョンイル総書記にお仕えしようと思っていました。・・・でも今はその思いは揺らいでいます。最初の頃は、苦しむことでパク・ジョンイル総書記が慰められるのならわたしはそれでもいいと思っていました。今までにわたしのグループでも仲間が急に亡くなったり事故で帰郷したりしたことがありました。たぶん、今わたしが受けたようなことが理由だと思います。これからどうしていいのかわたしには分からなくなりました」

しばらく間をおいて女が聞いてきた。

「どうしてわたしのことを聞くのですか」

「この国のことを知りたいからです。わたしの妻はこの国で生まれました。それを最後まで明かしませんでしたがわたしには分かっていました。きっと妻も若いときにはあなたたちと同じような生活をしたのだろうと思いましてね」

「あなたはわが国の人ですか」

「いえ、違います」

「では日本人ですか」

「どうしてわたしが日本人だと思ったのですか」

「敵対している同胞の南朝鮮とも友好国中国とも東南アジアの人たちとも雰囲気が違います。日本人ですか」

「日本に住んでいましたが日本人ではありません」

女は不思議そうな顔をしたがそれ以上は聞こうとしなかった。女はだいぶ落ち着いてきたらしい

「傷は痛みますか」

「大丈夫です」、と云いながらもかなり痛そうに見えた。女がまた質問をし出した。

「あなたはさっきパク・ジョンイル総書記を殺すのはわが国の党と軍だと言われました。また、ここからどうやって逃げ出すのですか」

海田真一郎はゆっくり肯いて、朝にならなければ事は動かない。時間はたっぷりあった。

「あなたにその訳を話しましょう。それこそわたしがここにいる理由でもあるのですから。あなたにどうして話す気になったのかと言えば、わたしの娘と同じ歳頃だと思い、ついなつかしくなったのです。もう何年も会っていません。娘と最後にあったときには寝っきりの病人でした。それに、やがてこのことは国家機密でも何でもないときがきます」

女は気の毒そうな顔をした。

「そうそう、あなたの質問は、どうして国家の元首であるとともに党と軍の最高指揮官にあるパク・ジョンイル総書記を党と軍が殺すことになるのか、ということでしたね。その訳をお話ししましよう。実は、今回の出来事は、僅かのパク・ジョンイルの取り巻き以外この国の誰ひとり知らないことなのです。パク・ジョンイルは党の審議にも軍事委員会にもかけないで、ある国を核爆弾で脅迫しました。その国とはアメリカと日本です。なぜそういう重大なことを誰にも相談しないで実行したのかと言うと、まず相談したら絶対に反対されることが分かっていたからです。そんなことをしたら逆に核爆弾が自分の頭の上に落ちてくるかも知れない。そう思うのが普通です。相手はアメリカですからね。細かいお話は省きますが、わたしがこの国へ侵入したのもそれを阻止するためでした。それでもこの計画は最初はうまくいったようでした。アメリカもこの国には手が出せなくなりなりました。なぜならアメリカの大都市の秘密の場所に核爆弾が隠されていたのです。その在処を知っているのはパク・ジョンイルと数人の工作員だけでした。もしその核爆弾が爆発したら何十万の人が死亡し経済は何年にも渡って混乱します。日本にも核爆弾で脅迫しました。日本はこの国を攻撃するだけの戦力は保持していませんが、このパク・ジョンイルの目的は経済的な貢ぎ物を要求することでした。日本から米や麦や原油、それに現金など膨大な物資が「経済援助」という表向きの名目でこの国へ届けられ今もその途上にあります。これは脅迫なんです。その背景を考えるとあなたはすぐに理解できるでしょう。実はあなたの国はとっくに破綻しているのです。もし、国外からの援助がなければ、この国の三分の一の人は半年以内に餓死するでしょう。あなたの故郷のことを考えてください。田畑は荒れて自然災害で食料の生産は激減しているはずです。また工場も、資材不足とエネルギー不足でいつも生産は中断しているところが多いはずです。このピョンヤンでも時々停電するでしょう。地方の都市や農村はもっとひどい。友好国中国からのエネルギー援助にも限りがあります。今北朝鮮は絶対的にエネルギーが不足しているのです。しかしその不足を補うために輸入したくても買う金がないのです。なけなしの金で買った燃料は優先的に軍や党の上層部に配られます。どうしてそうなったと思いますか」

その時に始めてパク・ジョンイルの方に顔を向けて海田真一郎はこういった。

「この男やこの男の父親の朴日成の国家運営が失敗に導いたのです。あなたがたが神のように敬っているこの男達が運営した国家政策が失敗したのが原因で、外国に頼り、それでも足りないと兵器や核技術を闇の世界に流し、最後は国家を脅迫してでも物資を得ようとする。なぜでしょうか。それほどこのパク・ジョンイルが国民のことを気にかけているのでしょうか。違います。かれは自分の身の安泰にだけ気をかけているのです。われわれの調査によれば、党と軍からの評価は下がり続けています。このまま行けばこの地位から引きずり下ろされて、責任を問われるでしょう。このパク・ジョンイルはそれを恐れてこの度の、大胆で無謀な行動に出たのです。パク・ジョンイルにとって国家を危険に晒した賭でした」

「まもなく合衆国大統領からこの国の党議長にメッセージが届くはずです。そうしたら党の要人も軍上層部も全員ここに押しかけてきます。わたしを殺しに来るのではなくて、無断でこんな危険な賭に出た総書記を国家としてどう処罰するのかという問題をもってね」

女は黙って聞いていてこう語り出した

「では、わたしたちが一生懸命、命も賭してこのパク・ジョンイル総書記に尽くしてきたことは無意味だったのですか。国民は何も知らされていないので、今もこの人を偉大な指導者とよび尊敬するでしょう。でもわたしはもうこの人を尊敬することは出来なくなりました。わたしはこれからどうしたらいいのでしょう」

それには海田真一郎も答えようがなかった。

その間、パク・ジョンイルは放心したように、呆然と海田真一郎の話を聞いていたが、たぶん何も頭には入らなかったようだ。突然水をくれと言い出した。海田真一郎はパク・ジョンイルの足首をロープで縛りあげた。先ほどナイフで刺された股の傷が痛いらしく顔をしかめた。そして胸回りもロープで締めあげたので彼の出っ張った腹がよけいに印象を深めた。食糧不足で毎月何千人もの餓死者がでているというのにこの男はブタのようにまるまると太っている。

「彼のこの姿がこの国の現実をよく現していると思いませんか」

しばらくして女は、

「わたしの名前はメ・ユンジュです」、と始めて名前を明かした。たぶん、この国の知らされていなかった現実が少しは分かってきたのだろう。メ・ユンジュはパク・ジョンイルのためにグラスに入れて水を持ってきたが、もうその手つきは恭しくはなかった。まるで目下の者に哀れんで差し出すような態度だった。パク・ジョンイルはそれを自由になった手で受取り一気に飲んだ。唇の端からこぼれでた水滴が彼の出っ張った腹を伝わって床にシミを作った。メ・ユンジュはそれを蔑むように見ると共に、こんな下らない男に使えていた自分に腹がったのだろうか、不機嫌そうな顔をしていた。海田真一郎はメ・ユンジュに言った。

「この部屋にも傷薬くらいはあるでしょう、持ってきなさい、手当をしよう」

メ・ユンジュは言われるままに探し出して薬の箱を抱えて持ってきた。海田真一郎はメ・ユンジュを椅子に座らせ消毒を始めた。最初は恥ずかしそうだったが海田真一郎に従ってさっき着けた服を脱いだ。背中には細い鞭の跡が斜めに何本も走っている。そこに触れられるたびに小さな声を出して痛がったが海田真一郎はかまわず薬を塗った。前にはナイフの傷があったがこれは自分でやると言ったのでメ・ユンジュンに任せる事にした。女は意外と小柄で痩せていた。こんな女をなぶり者にするとはどこまで異常なのか、たぶん国家を破滅の瀬戸際際まで追いやることも、ひとりの女を切り刻むことも彼にとっては同じ事なのだろう。自分の快感、満足それがすべてなのだ。パク・ジョンイルが今度はたばこを要求した。図に乗るなと言って、股の傷に消毒液をぶちまけたらギャーという声と共にうなりだした。先ほどの傷の手当てをすませたメ・ユンジュがコーヒーと何か食べる物を持ってきた。海田真一郎は昨日の昼から何も口にしていなかったことを思い出した。

夜が明けだした。まもなくこの国の指導者達がこの部屋に集結することになる。海田真一郎はそれまでに少し休むことにした。メ・ユンジュンをどうするか。もういちど安全のために縛るか。海田真一郎の思いを察したメ・ユンジュンは自分の方から両手を差し出した。縛ってくれと言う仕草だった。海田真一郎はその手を優しく握り返して、あなたも少し休むといいと言ってこの高価な部屋にふんだんに置いてある寝具を指さした。海田真一郎はもう一度パク・ジョンイルが縛られているロープを確認して女の方を見た。メ・ユンジュはもう眠りについていた。海田真一郎もメ・ユンジュの傍らで眠りについた。

デッサン36

海田みどりは自分の五感が自分の意志の通りに動くようになってから、一五年のギャップを取りもどそうと猛烈な勢いで、知識を掻き込んでいた。体の動きもスムーズになりひとりで散歩できるまでになった。傍目から見て、とてもこの人物が一五年の間寝っきりの病人であったとは思われないだろう。一年もすれば他の若い娘たちと同じく旅行をしたり、スポーツをしたり、そして男性を愛することも出来るだろう。眠れる森の美女さながら彼女の前途にまた光が射しこんできたようだった。

昨日浜崎ゆかりが尋ねてきて1時間くらい会話をした。その時に、海田みどりは浜崎ゆかりに約束した。今もこの病院にいる浜崎ゆかりの兄をいっしょに面倒見ると言うことを。そしてこう言った。

「あゆみさん。こんどはあなたが幸せになる番ですよ」

確かに、この年になるまで浜崎あゆみは男性と付き合ったことはなく、男を好きになるということもなかった。自分の前にはいつも病床の兄がいて、自分の生涯はこの兄のためにあるようなものだと思っていた。在学中もエイコー電気に務めている今も、自分だけ幸せになろうという思いは湧いてこなかった。それは病床の兄にたいして悪いという思いがあったためだった。それが、海田みどりに言われて、自分がうら若い女であることとまだ大きな可能性を秘めていることを思い起こさせた。自然に涙がこぼれてきて、今まで力んできた力が一編に抜けたような気がした。そうか、わたしも幸せになっていいんだ。ありがとう、浜崎ゆかりはそれだけ言うのが精いっぱいだった。

今日はモスクワ郊外のサナトリウムでは週1回の面会の日にあたっていた。ここの入院患者は家族と会えるこの日を楽しみにしていて、その日になると浮き足だった。午前10自になると、ホールや庭先のベンチでは楽しそうに話しに会っているグループの輪が目に付く。しかし、この日が楽しいばかりではない患者もいる。いつも特別室に入れられ、看護師の身なりをした監視役に四六時中見張られ、完治してもこの病院を出ることも、外出も認められないで一生この病院で暮らすことが義務づけられ、もう外の世界との接触は願っても叶えられそうもないと観念した女もいた。全身の傷はかっての尋問の激しさを物語り、その時より2ヶ月以上も経過しているのに、自分で立つことも難しい。用を足すときにも着替えるときにも人の手を煩わせるひつようがあった。無表情なこの女性患者は何に対しても反応がない。以前は数百人の部下を使って国家の一部門を動かしていた人物の面影はもはやどこにもなかった。あとは静かに死期を待つのみだが、それさえ自分の自由にはならない。つい一〇日前に、貯めておいた睡眠薬を一機に飲んでこれで楽になると思ったが、礼の監視役の女性に発見され胃を洗浄され、「事なき」を得た。彼女にとって、最後の平安の望みさえ奪われてしまったのだ。記憶も、自白の信憑性を調べるために強力な薬剤を多量にうたれたせいで、頭脳は正常な働きをしなくなった。数も一〇〇まで数えることも出来なくなり、ことばも表現も小さな子ども程度にしかできなくなった。しかしただ、このことだけは薄れゆく記憶に抗うようにしてますます強くなっていった。それは、あの男に対する憎悪であった。彼女はベッドに横たわるばかりで何も出来なかった。食事を採ることも二日に一度の風呂にはいることも、しかし、今も衰えゆく頭脳の限られた能力を駆使して彼女はひとつのことを考え続けた。その瞬間から、彼女はもはや自分で自分の命を終わらせるような行動はとらなくなった。あの男の没落を見届けるまでは。

永き眠りの後に#27-28

デッサン27

ピョンヤンの昼下がり、イ・ヒョングとリョ・テクの孫たちは、いつも学校から帰ってくる自分たちを迎えるはずのジイがいないので不思議がったが、テーブルの上にはおやつの手製のパンと例のドロップが置かれているので心配しなかった。たぶん、急用でどこかに出かけたのだ。きっとそのうちに帰ってくるだろう。しかし、ジイはその夜も帰ってこなかった。不審に思った娘夫婦宛てにテーブルの上に茶封筒があった。封筒を開いた夫婦は顔を見合わせて声も出なかった。あの温厚な父親が・・・。しばらくして、冷静になった夫婦は父親の指図通りに当局へ訴え出た。茶封筒には、いかにも日本の工作員らしい証拠品が添えられてあった。筋書きによると、父の部屋を掃除していたら部屋の隅からおかしなものが出てきたので、読んでびっくりして届けに来た、と言うものだった。そして、昨晩は帰らなかったと付け加えた。共産党直属の思想取り締まり警官の判断は、たぶん、長年にわたって、本国の事情を日本に内通していたのだろうというものだった。そして、肉親とは言いながらも国家の危機のためによく知らせてくれたと、褒美として米10キロを渡され帰宅を許された。娘夫婦は妙な感じだったが、これも父の筋書き通りなのでそうすることにしたのだ。ただこうなっては、父はただでは済むまい。それにしても、どうして父は40年以上も日本と通じていたのだろうか。母国を裏切る程のどのような理由があったのだろうか、考えても答えの出る問題ではなかった。ただ、父親の身が心配だった。リョ・テクの家では家族が、ただ父が失踪したという報告を当局にしただけだった。イ・ヒョング・とリョ・テクがつながっていることはイ・ヒョングの「証拠品」で匂わせてあったので、いくら鈍い警察でも二人がグルになって何かしでかそうと計画している事は予想できた。しかし、二人とももうとっくに七十の坂を超えており、大それた事は出来まいと高をくくっていた。だが、まもなく事件が起きてこの警察官は青くなった。まさか、自分のところに持ち込まれていたあの老人たちが大それた事をしでかすとは、これが知れたら下手すると銃殺刑になるかもしれない。思想取り締まりの警官は進退極まることになった。

「一週間後、中国から民芸団が来朝して、人民大会堂で演舞会がある。それには中国大使のチャン・ツーとピョンヤン在住の各国大使も参列する。パク・ジョンイルもその列に加わるはずだ。なにぶんパク・ジョンイルは自分を芸術家と自認しているし、第一、興味があるはずだ。それに中国との友好をアピールするにも絶好の機会だ。われわれはその時に決起する」

リョ・テクとイ・ヒョングはふたりで協議した結果をカイダ・シンイチロウに伝えた。

「しかし、人民大会堂は広すぎて仕事は難しい」。カイダ・シンイチロウが疑問符を投げかける。

「わかっている。問題はその帰途だ」、とイ・ヒョング。

「車を襲うわけか。しかし、パク・ジョンイルの車は重装備で、機関銃や手榴弾ではびくともしないぞ」

「いや、ちょっと警備の連中が驚いてパニックに陥ればいいんだ。そうすれば彼らは大事をとって最短距離の隠れ家に逃げ込むはずだ」

「なるほど、そこに待機すればいいわけだな」

「そうだ、わしらはそこまでの手引きはする。それから先はあんたの仕事だ」

「しかし、そんなことをすればあんたらの命はないぞ」

「もとより覚悟のうえだ。それより、カイダさん、確実にしとめてくれよ。・・・」

ピョンヤン市内の手書きの地図を広げてイ・ヒョングとリョ・テクが説明に入った。

「もし、ここでわれわれが車を襲ったら、警備の連中は最寄りの一番近くて警備の厳重な、この隠れ家に逃げ込むはずだ。この地点だ。三方を小高い丘に囲まれていて、そこには常時見張りが立っている。全面は何重にも車止めが施されている曲がりくねった道が一キロも続く。それ以外の施設までは時間がかかりすぎる。こういう場合警備陣は、最短距離にある施設に逃げ込むはずだ。パク・ジョンイルと警備陣は必ずここに逃げ込む。だからカイダさん、あんたはわれわれが「事件」を起こす前にこの施設に潜り込んでおいてくれ。パク・ジョンイルが滞在しているときには警備は50人はくだらないが、不在の時には5人足らずだ」

「それでも5人もいるのか」

「いくつかの案は考えてある。これが隠れ家の簡単な見取り図だ。5年前に内部工事に紛れ込んだ時に作ったものだ。今もそう変わっていないだろう。だが、気をつけろ。外壁に沿って赤外線探知機が巡らせてある。塀の高さは三メートル、とても超えられない。だから正面から入るしかない。

「どうやって館内に入るんだ。何か方法があるのか」

「どんな完璧な防御壁にも、そこに人間がいる限り食料や物資の搬入は避けられない。定期的に清掃班や注文品を届ける車も出入りする。今回はそれを利用する。わたしの知り合いの清掃班が、明後日呼ばれている。その車の内側に隠れて進入してくれ。清掃班の首班には前日酒を飲ませあんたから渡された多額の現金を握らせ買収した。だからあんたは他の作業員には見つからないようにしてくれ。後の手配は全てわしらに任せてくれ・・・」。

しばらく互いが互いを見つめ合いながら、イ・ヒョングとリョ・テクがカイダ・シンイチロウに言った、

「会うのはこれが最後だ。必ず成功させてくれよ」

カイダ・シンイチロウも同じ気持ちながら、どうしても腑に落ちない点を問うた、

「もう一度聞くが、最後に答えてくれ。あんたらはどうして本国を裏切るのだ」

「この国を愛しているからだよ、カイダさん」、そう言ってイ・ヒョングにリョ・テクが相づちを打った。

「そういうカイダさん、おまえさんはどうなんだ」

「たぶん、説明しても分かって貰えないだろうが、わたしの仕事があんたらのためになると知ってうれしいよ」。

それから三人はしばし無言で互いの顔を見つめ合っていた。もう生きて再会することはないと言うことは、この3人には分かっていた。会った瞬間から、もう何十年来の同志のように心の内を話し合ったばかりだが、まだほんの1週間しか経っていないことに互いに驚いた。しかし、何の警戒心もわだかまりも感じなかった。それは、体制や国情や育ちが違っていても、ひとつ共通している点があったからだ。イ・ヒョングもリョ・テクもカイダ・シンイチロウも、国家のために生きるか死ぬかの修羅場をくぐり抜けてきたが、その代償がこの閉塞した世界とその最たる独善的国家が誕生したということだ。カイダ・シンイチロウもこの世界で仕事をすればするほど、失望と虚無感に陥った。

彼らの手で、何とかこの独裁者の芽を摘んでおきたい。それが彼らの息子たちや孫たちへの、せめてもの遺産とでも思っているのだろうか。そのうちに3人はバラバラに分かれて夜陰にまぎれた。

デッサン28

東京駅の地下ホームの空調と換気を一手に引き受けている大口径の垂直なダクトは分厚いフィルターと鉄板で上部を覆われている。ところがどういうわけか地下の温度が次第に高くなり出した。異常に気づいた監視員がコントロールルームのモニターをチェックしたところ、空調ダクトのフィルターに赤ランプが点滅していることが分かった。このまま放っておくとさらに温度は上昇するだろう。至急修理しないと。監視員は緊急に修理屋を呼んだ。外部に突き出た巨大な煙突状のダクトの一部が機能を停止したらしい。やっかいなことになった。作業員は舌打ちしながら上部カバーをクレーンで支えながらはずしてフィルターの一部を取りのけた。すると、地下五〇メートルから地上一〇メートルまでまっすぐに伸びた暗闇のダクトが現れ、作業員は飲み込まれそうになって身を引いた。時はちょうど正午。その時、地下ホーム脇のダクトが平行に走る場所で小さな物体が微弱な信号を発信した。しかし、それはどの通信機にもキャッチされず誰にも気づかれなかった。ただ高度三万五千キロ上空にあるロシアの軍事偵察衛星は、その微弱な信号を捕らえた。ダクトの修理は2時間ほどで終了して、また分厚い鉄板で閉じられた。

手詰まり状態のセルゲイ・バッハービッチのもとに緊急連絡が入った。メモには、信号がキャッチされた地点の東経と西経がしるされていた。すぐに東条が確認すると、東京駅の北のはずれ、たぶん地下ホームがある地点と判明した。目標物は小さい。あの広い東京駅の構内からカンビールを探し出すのは並大抵ではない。

「高輪プリンスホテルは動きはないか」

「毎日、ふたりは町に出かけ、まるで恋人同士のように腕を組んで歩いています」

「われわれには手が出せないということが分かっているんだ」

アベックを装った警視庁の若い女警部補と内閣調査室捜査官はぎりぎりのところまで近づいて二人の状況を伺ったが、ジュ・テジュンはもうカムフラージュしてはいなかった。堂々と持ち前の美貌をあらわにし、道行く人々の視線を楽しんでいだ。

ジュ・テジュンは、日本側がカンビールのありかをほぼ突き止めようとしていることはまだ知らなかった。しかし、ここで日本側がかってに動き出せばアメリカのどこかの都市にある核に影響が出る恐れがある。今は、これまで通りに彼女らを見張り、カンビールの位置を特定するようにと東条は厳命した。内閣官房副長官篠崎百合子に、大山一郎総理から連絡が入った。パク・ジョンイルから二度目の「経済援助」の要請が来たとのことだった。これを公表すれば、前回の援助からまだ数週間しか経過していず、マスコミは何か嗅ぎつき国内は騒然となり、拉致被害者や北朝鮮に反発している右翼を中心に、国内は騒然となるだろう。そこまでくれば、大山一郎政権は保たないということだった。つまり、早急に核爆弾を割り出し、危機的状況からこの日本を救い出せとの厳命であった。

FBI捜査官ジュディ・マクガイアは、連邦裁判所裏の警備員室を尋ねるところだった。警備員は自分の前に立っている一見ハイスクール娘を見て、ピザの宅配アルバイトだろうと見当を付け、ニッコリ微笑みかけた。相手の娘もニッコリ笑って証明書を出した。すると警備員の笑顔に変化が出てきた。

早速マクガイア捜査官は質問にかかった。

「ちょっと気になったのでお尋ねするのですが」、と切り出した。

「あなたは新聞のインタビューで、当日の空調設備の作業員を、とても心臓発作で死亡するようには見えなかった、と答えていますね」

「ああ、確かにそう答えたよ。あのアジア系の若い作業員は健康そのものに見えたんだ」

「今、何と言いましたか」

「作業員は健康そのものに見えたと・・・」

「その前には・・・」

「あのアジア系の若い作業員は・・・」

「あなたは死亡記事を読んでいないのですか」。ジュディーの背中に冷たいものが走った。

「スポーツ紙ならその日も読んだが、記事は載ってなかったなあ。あの記事はニューヨーク・タイムズにだけ載ってたんだっけ。でも、なんでそんなことを気にするんだい、お嬢さん」

警備員はなぜこのハイスクール調のFBI捜査官がしつこく質問するのかその訳が分からなかった。

「確かに、アジア系でしたか」ジュディー・マクガイアの胸の鼓動は、端から見ても分かるほどに激しくなった。

警備員は少し心配になって、「たぶんそうです」と、今度は慎重に答えた。

FBI捜査官は実際に死亡した空調設備作業員の写真をとり出して確認を求めた。

「この人ですか」、手は心なしか震えていた。

出された写真を見て、警備員は頭が混乱した。そこには、アフリカ系アメリカ人男性の写真があったのだ。何を思ったのか、ジュディ・マクガイア捜査官は、この警備員を、ウムを言わせずFBIのオフイスに連れて行き、今度は部長を交えて細かな質問をした。

「どの事件との関連で捜査するのか」、と部長は問いただした。

これはわたしの憶測ですが、と前置きしてジュディは、

「わが国を脅迫している北朝鮮の核爆弾との関連で捜査しようと思っています」、述べた。

ジャック・ノーブル部長は、この小娘の妄想には付き合いきれないと思いながらも、またつきまとわれては面倒だと思ったのか、

「その線は薄いと思うが捜査続行は認める」、と伝えた。

ジュディ・マクガイアは、部長が乗り気薄なので少し気落ちしたが、何か虫の知らせのようなものが内心にあった。マクガイア捜査官は、自分一人でも捜査しようと思ったが、モノがものだけにその線の知識がないので、彼女の1年後輩でスタンフォード大学の助手で原子物理学を専攻しているマイク・ウエインに協力を頼んだ。マイクは聞いてきた。

「何の捜査に僕の力が必要なんだい」

「核爆弾を探すのよと」、と告げると、マイクは冗談だろうと思ったが彼女の真剣な目差しを見て、たぶん本当かもしれないと思った。

「その前に、いろいろ教えて貰いたいの」、とジュディは切り出した。

「まず、核爆弾を見つけたらどうしたらいいの」

「それは何ともいえないな。爆弾の種類にもよるんだ。例えば、どこか地上にセットして地上で爆発させるもの、航空機から投下するもの、ミサイルで運んで大気圏を通過しある高度で爆発させるもの、まだあるぞ・・・」、ジュディはマイクの口を制して、

「パキスタンから盗まれた、パキスタン陸軍ミサイル部隊の中距離弾道用らしいの」

「そいつはやっかいだなあ。あの手の爆弾にはいくつもの起爆条件が組込まれている。まず、タイマーだ、時間がきたらドカンというやつ。それにショックに反応して爆発するもの。そして気圧に反応して爆発するもの。ミサイル用だとこれが多いな。爆弾は地上より5,6百メートル上空で爆発する時がいちばん効果があるんだ。君も水爆のキノコ雲の写真を見たことがあるだろう、火の玉の中心は上空にあるんだ。例えばそれが、百キロトンの水爆が地上で爆発した場合、例えばこのニューヨークのマンハッタンの真ん中で爆発した場合、まず、マンハッタン島全体が壊滅し、何年も人が住めないようになり、島を中心に広い範囲が半壊ないしは全壊し、放射能の影響が長年続く。それは人体に蓄積され何十年にもわたって死人を増やしていくだろう。ジュディ、どうしてそんなこと聞くんだい。これは演習なんだろう」

ジュディは真剣な顔をして言った

「マイク。これは極秘の情報よ。このことを外部に漏らせばアメリカ中がひっくり返るような騒ぎになるわ。だから絶対外部に漏らさないでね。・・・今アメリカは、ある国から核爆弾で脅迫を受けているの」

マイクは低く口笛を吹いた。

「どこのどいつなんだい。このアメリカを脅迫する国は」

それには答えず、「明日から二,三日休暇をとってわたしに協力してちょうだい」

マイク・ウエインはしぶしぶ了解した。これでまた準教授を目指した論文が遅くなる。

しかし、マイクにはジュディの協力依頼を断れない理由があったのだ。なぜならマイクは日頃からジュディを憎からず思っていたからだ。

再び、連邦裁判所の裏手に、目立たないようにセダンが駐まった。もちろんここは駐車禁止だ。交通取り締まりの警察官がきた。ここで反則切符を切るのかと思ったら、車をチラッと見ただけで通り過ぎていった。交通取り締まりの警察官は、セダンのナンバーを見たのだ。このナンバーは、政府専用車の極秘任務に関わる車であることを表していたのだ。そして、この車からはさっきの若い男女が出ていったばかりだった。

2007年10月27日 (土)

永き眠りの後に#33-34

デッサン33

ニューヨーク・タイムズ、ワシントンポスト、それにタブロイド版の数社がアメリカ連邦裁判所の内部改装工事を実施する旨のニュースを写真入りで掲載した。とくに、老朽化が激しい地下二階の部分の工事は徹底的に行う旨国家建設局の公表であった。緊急に集められた各社の記者たちはニュースの内容からして、わざわざ緊急に記者会見するほどのことも無かろうに何で、といぶかった。要するに、連邦裁判所の建物の内部が老朽化が進んでいるので工事をするということ、ただそれだけのことに記者たちを集めて公表したのだ。その際、担当者はいつもと違うことを新聞各社に要請した。それは、記事と一緒に建物の写真も掲載してくれ、それも目立つところに、ということであった。当然、新聞各社はその理由を聞こうとしたが、担当者は木で鼻をくくるような不思議なことを言った。この件に関して、みなさんが疑問に思うことは当方でも十分承知している。しかし、これは政府の高度な意志決定機関でなされた決定で、いまはこれだけしかはなせない。是非、協力していただきたい。何かあると見た新聞各社は、一応政府発表の内容をそのまま写真入りで記事にした。その際、後日穴埋めはするという約束は当然取り付けた。翌日の新聞スタンドには各社の新聞が並んだが、新聞をひったくるようにして買い求めたアジア系の男がいた。その男がなぜその新聞を買ったかというと、たまたま四つ折りにされた新聞の正面に例の記事が掲載されていたからだ。その記事によると1週間後から工事にかかるので、明日中にもその調査にかかるとなっていた。その男はパニックになり、目の前のゴミ収集ボックスを蹴り上げ周りの通行人を驚かせた。何としても今日中に例のモノを回収しなければ。

読売新聞福岡支社社会部次長に任命され、取るものもとりあえず転任した矢崎は、毎日浮かぬ顔をして周りの同僚にいぶかわれた。矢崎は先の一件で根気も尽き果てて放心状態になっていたのだ。彼の福岡での仕事は、警察の玄関種を元にした部下の記事をチェックするという矢崎が最も苦手とするディスクワークだった。矢崎は外を飛び回ってネタを探し歩くことに生き甲斐を感じるような男なのだ。だから彼の今の立場は牢屋に入れられたも同じで、仕事に身が入らないのもそのためだった。そもそも矢崎が福岡へ遠島を仰せつかったのも、彼が、朝日の大家と共に根室港でロシア船籍の漁船とロシアで紛失したとされる戦術核との関連をつつきだしたことによる。事件の発覚をおそれた日本政府は、読売新聞社の上層部に政府高官が直々に出向きある内容の要求をした。事の重大さに読売の上層部も政府の要求を飲まざるを得なかった。その結果矢崎は体の良い突然の「昇進」として福岡支社に遠島島流しとなったのだ。矢崎はその事情を知りすぎているので敢えて反論はしなかったが自分の中では忸怩たる思いだった。家族とも別れてひとり身で福岡に降りた矢崎は、新聞社の独身寮に陣取り、毎夜深酒を煽った。ひとり酒を飲みながら反復する思いは、しかし、俺に何が出来るというんだ。もしあの件を深追いして政府を追及すれば道新の檜山の後を追うことは火を見るよりも明らかだった。それは朝日の大家とて同じだろう。日本政府が新聞記者のひとりやふたりの命を省みないでひた隠しにしていることは、あるいはブン屋の俺たちが関わらない方が良いのかも知れない。しかし、おれは知りたい。何がどうなっているのか。しかも、最近政府の北朝鮮に対する常識を越えた唐突とも思える援助には何か裏があると考えるのが筋だ。ロシアの戦術核紛失と根室港での船長死亡と北朝鮮への突然の食糧援助には関係がある。これが矢崎の信念とも思える推測だった。では、それがどう繋がっているのか。明くる朝、二日酔いでガンガンする頭をいたわりながら出社した矢崎の元に電話があった。

「俺だ。名前は言うな。すぐ電話をくれ」、それで電話は切れた。

誰からの電話か、矢崎にはすぐ分かった。社の電話も独身寮の電話も矢崎の携帯電話も盗聴されていると思うようになって「公式」な電話以外一切使っていない。矢崎は行きつけの飲み屋の電話から、東京の以前ブン屋の溜まり場として使っていた飲み屋の二階へ電話した。相手は朝日の大家だった。電話口に出た大家は興奮気味に早口でまくし立てた。

「やっぱり俺たちが推測していたとおりだ。ロシアの戦術核はナホトカのカニ漁の漁船の船長の手によって根室港に持ち込まれた。それを受け取ったのは誰だと思う。・・・北朝鮮系の貿易会社「朝・日友好貿易」の責任者ジュ・デジュンという女だ。その女は今高輪のプリンスホテルに男と投宿している」

「その女が核爆弾をもっているのか」

「それは不明だが、在処を知っているのかも知れない。ロシア船の船長が「事故」に合った時期にはこのジュ・デジュンも根室に行っている。それに、急に日本政府が気前のいい援助を北朝鮮に表明したことを不思議に思っていたが、これらの3件を繋いで考えられることは、北朝鮮は核爆弾で日本政府を脅迫し援助物資をむしり取ったということだ。さらに、その後新潟港に寄港した北朝鮮籍貨客船に日本政府は50億ドルという途方もない金を渡したという情報だ。これは表沙汰にはなっていないがこの受け渡しに関わった関係者が悔し紛れに朝日の首相官邸に張り込んでいる記者にオフレコで話したらしい。その担当者は義憤に震えていたそうだ。かれは日本政府がパク・ジョンイルに脅迫されていることを知らないのだ」

「つまり、こういう事だな。パク・ジョンイルはロシアの核を東京のど真ん中に隠し置いて、日本政府に金品をむしり取ることを実行に移した。そしてそれは今回のように一度では終わらない。これから何年にも渡って続くと考えられる」

「そういうことだ。既に政府には2回目の要求が来ているらしい。政府は難色を示しているようだが最後には折れるだろう。というのが、核爆弾が爆発しなくとも、この情報をリークするだけで日本中はひっくり返るくらいの騒ぎになり、社会生活も経済も大打撃を受けるだろう。当然、時の内閣もこの騒ぎに耐えなくて総辞職ということになる。その上で公式には北朝鮮はこの情報を否定する。卑劣なやり方だがアマちゃんの日本政府にはうってつけの方法だろうよ。おまけに、韓国政府は妙に冷静にしている。彼らにとっては日本がこのことで地盤沈下することは願ってもないことで、陰では拍手喝采していることだろう。これがうまくいけば今度は自分たちが餌食になると言うことを理解していないんだ。同民族だから無理もないことだが、かれらはパク・ジョンイルを甘く見すぎているよ。彼らは韓国もやがて北朝鮮に飲み込まれると言うことを知らないのだ。・・ここまでは話すまでもない事だが、これからが本題だ」

「まだ何かあるのか」

「最近アメリカの大使館と内閣官房副長官の篠崎百合子との間に頻繁に行き来がある」

「事の次第をアメリカに打ち明けて協力を仰ごうと言うことではないのか」

「いや、それ以上だ。あんたも二年ほど前に、パキスタンのミサイル用の戦略核が行方不明になったということを覚えているか」

「ああ、当時大変な騒ぎになり、アメリカが独自の査察班を送りこもうとして騒動が起き、結局国連のIAEAが調査に乗り出した事件だな。あの戦略核も最終的に北朝鮮の手に落ちたらしい」

「その核をパク・ジョンイルは何に使おうとしたんだ」

「それを既に使ったらしい。相手はアメリカだ」

「パク・ジョンイルは正気か。これが表沙汰になったらアメリカは北朝鮮を核攻撃するぞ」

「現実には、そうはならなかった。パク・ジョンイルはアメリカの大都市の都市名は明らかにしなかったが、その都市の深部に一〇〇キロトンの核爆弾を既に設置してしまったのだ。そして、しかる後にパク・ジョンイルはアメリカ政府に戦略核の写真と共にメッセージを送ってよこした。北朝鮮に手出しはするな、と」

「パク・ジョンイルはなぜこんな無謀な賭に出たのだ」

「それは彼の国内問題が原因だ。あんたも知っているとおり、ここ二〇年来、北朝鮮の経済は披瀝し、国民の二割は餓死したとも言われている。今も経済は毎年一五パーセントから二〇パーセントの勢いで下降線を辿っており、彼の威信も国の経済同様低下の一途を辿っている。その状況の中で彼が最も恐れるのが、軍部のクーデターだ。高級将官は特別待遇で支持を取り付けているが、下級将校や一般兵士に至ってはほとんどが地方の農民出身だ。その彼らの家族が生計を立てる農業が、肥料やエネルギーが不足しているにも関わらず食糧増産命令でむやみに田畑を開墾した結果、自然災害に弱い体質になった。昔は山林が雨水を留め適度の農業環境を保っていたが、今ではどの山々も地肌が露出して、自然の風雨に対して抵抗力がない。雨水に対して吸収する山林を持たない農地は、一度の大雨で植えた苗を濁流に押し流され秋の実りは期待できない状況だ。今は偉大な領主パク・ジョンイル将軍も、いつまで奉られるかその将軍様がいちばん危機感を持っているというわけだ。軍あってのリー・ジョンイルだ。いくら高級将校を手なづけても、その何百倍の下級将校や末端の兵士の反乱に火がつけば一夜のうちに彼は処刑台へと歩まされることは当然の成り行きだ」

「パク・ジョンイルは何としてもそれは避けたい。核開発もその線から考えるとよく理解できる。彼にとっては、原子力発電も核ミサイルも外に向かっての武器ではないのだ。むしろ内に向かっての威嚇と地位安定策と考えた方がいい。ミサイルも核も、その目的のためのため手段に過ぎず、海外を脅しゆすっての援助強奪が目的と考えた方がいい」

「そして今度は日本から、経済援助といえば聞こえはいいが、その内実は日本政府を核で脅迫して物資や金をむしり取ろうという算段だな。それも何年にも渡って」

「そういうことだ。日本としては歯がゆい現状だがどうしようもない。そこにアメリカからの誘いがきた。共同でパク・ジョンイルを始末しようという計画だ」

「どうやってそれを知り得たんだ、あんたは」

「ある高級官僚のオフレコ条件の話だ。だから、あんたもその点留意してくれよ」

「わかった。それで、どうやってパク・ジョンイルに対抗するのだ」

「まず、何としても国内に持ち込まれた核を始末しなければならないだろう」

「その通りだ。つい最近になって日本の内閣調査室と警察は隠されている位置をほぼ確定したらしい」

「どうやって探し当てたんだ」

「ロシアの協力だ。もし、この核が実際に東京で爆発でもしようものなら、ロシアもただでは済むまい。ロシアも必死なのだ。だから今まで極秘にされていた軍の偵察衛星の能力もオープンにして、フルに使い、遂にその在処を特定したらしい」

「では、すぐに撤去にかかるのか」

「いや、まだだ。アメリカの都市に隠されているパキスタン製の戦略核も見つけ出して、同時に撤去するらしい」

「それはなぜだ」

「パク・ジョンイルが日本政府に最近寄越したメモには、日本とアメリカが共同でこの件に当たっていることを知っている節がある。それで、どちらかの核を発見して撤去したら、もう一つの核を爆発させることを示唆し日米を牽制してきた。暗殺者を北朝鮮に送り込んだらしいが、自分にもしもの事があれば核を使うという脅しも含まれていた。日米は、公式にはそのような者を北朝鮮国内に送り込んだ事実はないと突っぱねたが、実のところパク・ジョンイルが恐れているように何者かが北朝鮮のしかもパク・ジョンイルの間近に潜んでいるらしい。アメリカも、今度という今度は国家安全保障上からも彼を抹殺するつもりだ。それによる海外からの批判も甘んじて受ける覚悟だ」

「ジュリア・ジョーンズ大統領も忍耐の限度に達した訳か。北朝鮮内の党や軍部の動きはどうなのだ」

「それが何とも不思議なことに、両方とも動きがない。ということは、ラングーン事件と同じように、これはパク・ジョンイルとその一部の取り巻き連中のしでかしたことか」

「その線も考えられる。あの時もパク・ジョンイルは失敗して朴日成より厳罰を受け再起不能と言われていたが、側近だけ粛正され自分は生き残った男だ。まだ懲りないらしい」

「かれはこの核騒動で下手をすると自分の国民の上にアメリカの核ミサイルが飛んでくることを念頭に入れたのだろうか」

「たぶん、パク・ジョンイルにとって、そんなことはどうでも良いのではないか。ただ、自分が安泰であれば国民の半分が核爆弾の高熱に焼かれようが飢えて死のうが一向にかまわない。北朝鮮の幹部連中もどれもこれも御身の安泰だけが大事というわけだ。日本もこの件に対しては切り札を使ったらしい。最近北朝鮮で中国民族舞踊の公演に随行した筋の話として北京で広まった噂によると、舞踊会の当日、朴日成広場で爆発事件があったそうだ。その車というのが、隊列から見て中央の車に乗っていたのは舞踊会観劇の帰途にあったパク・ジョンイルの可能性が大ということだ」

「誰かがパク・ジョンイルを狙ったのか」

「その噂によると、爆発物は手製の爆弾らしく全く車には損傷を与えなかったということと、2度あったらしくいずれも犯人は老人とのことだ。警備班の過剰反応で付近にいた修学旅行の生徒を中心に多大な死傷者が出たらしい。もちろん、ラジオ・テレビ・新聞には何の報道もなかった」

「大家、あんたはこんなこと聞き込んで大丈夫か」

「先日、部長から二度目の忠告を受けたよ」

「で、上司はなんと言ったのだ」

「要するに、一新聞記者や一新聞社の範疇を超える出来事が今進行している。お前がそれに関わる情報を得ること自体は何ら問題ではないが、調査で知り得た情報を公にすることになれば危険が伴うぞとはっきり言われたよ。上層部にはかなり詳細に情報を伝えてあるらしい。たぶん、日本政府は全ての新聞とテレビに口封じを命じたと考えるのが妥当だろう。インターネットの方も幾つか調べてみたが何もない。彼らは、平時は勇ましいことを言うがイザというときには大人しくなるものさ」

「大家、俺の娘の誕生日がまもなくだ。それにかこつけて東京帰る。その時にまた連絡するよ。大家、気をつけろよ。あまりやりすぎると道新の檜山の後を追うことになるぞ」

「そういうあんたはどうなんだい。福岡でおとなしくしている輩とも思えないぜ」

デッサン34

ニューヨーク・マンハッタン島のロウア・マンハッタンUSコート・ハウス連邦裁判所の裏側は妙に静まりかえっていた。男が用意していた侵入のためのダイヤモンドカッターは的確に地下の窓ガラスを削っている。幸いなことにこの建物は地下の外壁と道路の間に2メートルの隙間があり、外から特に今晩のように闇夜には見通しがきかないだろう。ただ、注意しなければならないのは、全ての地下と地上1階の窓ガラスにはセンサーがついていてガラスが割れようものならけたたましい警報が鳴り出すはずだ。幸い、窓ガラスの面積は大きい。これなら一部に穴を開けてもセンサーにふれることはないだろう。二〇分もすると厚さ7ミリのガラスにぽっかり四〇センチの穴が開いた。ここまではうまくいった。次に体をよじ曲げガラスにふれないように内部に侵入して体を支えてくれるものを見つけなければならない。探したが何もない。このまま床に落ちることは構わないがガラスにふれて割れるかも知れない。そうなったら万事休すだ。男は一か八かこの7ミリのガラスに体を預けることにした。七〇キロの重みをガラスに少しづつ乗せながら片手だけでガラスの断面を掴み最後に静かに床に飛び降りた。7ミリのガラスは重みに耐えセンサーは作動しなかった。男は油汗をかきながらしばらくその場にうずくまった。あとはあの円筒をどこに移すかだ。新聞記事によると工事は地下部分が主だ。今度は思い切って最上階へ持って行こう。守衛は2時間ごとに館内を回るはずだ。作業には十分すぎるほどの時間だ。

男は呼吸の乱れを取り戻し、地下二階の円筒形の置物目指して近づいていった。夜間だから当然ではあるがいやに静かだ。自分の小さな足音だけが聞こえるだけで物音と言えば、空調の風の音だけだ。時折、ボイラーの点火音がかすかに聞こえてくる。用心しながら地下二階へ通じる階段を降りていった。辺りは静まりかえっており問題はなさそうだ。果たして通路の奥の窪みの位置に埃をかぶって物はあった。ホッとした男は塵と蜘蛛の巣を取り払い、手をかけた。その時男の顔から血の気が引いた。やけに軽いのだ。自分が置いた物は一二〇キロ以上あったはずだがこの円筒はたかだか三〇ロもない。目の前が真っ暗になり油汗がしたたり落ちた。誰かが発見して中身を移したらしい。その時、背後の小さな物音に気づいて後ろを振り返った瞬間、一斉に明かりが点灯され多数の銃口が目に飛び込んできた。男は自分の最後を悟り、日頃から訓練されていた奥歯の内容物をかみ砕こうとして顎に力を入れようとした瞬間、サイレンサーが空気の抜けるチューブのような音を出して男の右肩を貫通した。その後のことは激しい痛みとともに記憶が薄れていって覚えていなかった。指揮を執ったジュディ・マクガイアは部下に厳命した。

「この男を絶対に生かしてちょうだい。聞き出すくことが山ほどあるからね」

通常ならばこの男は厳重な監視の下に入院を許されある程度治癒してから尋問という流れになるが、時は急を要していた。男を診た医師の診察では弾は貫通していて命に別状はないとのことだったが、もし、あと1秒でも遅れていたら男の奥歯に仕込まれたサリン系の毒物によって即死していただろうと言うことも分かった。ということはますます生かしておいて聞き出す必要がありそうだ。やがて男に意識が戻り、質問に答えられる程度に回復した。すばやく男は口の中を舌であせくり毒薬を探したがそれも取り払われていることを悟り、観念したようだった。例によって、「正常な状態」で尋問がはじめられた。男は観念したように見えたが油断は禁物。その後、自白剤を打たれ証言のすり合わせがなされるはずだ。

どうやってパキスタン製のミサイル核弾頭をアメリカ国内に持ち込んだのか、そこから尋問は始まった。

その前に、この戦略核はミサイル専用であり、高空から他国に撃ち込み、ある一定の高度で爆発するように設計されているので、地上でタイマーにより爆発させるように変更がなされていた。それは北朝鮮本国の核関連の技術者がやったようだ。その後、海路韓国に運ばれ、韓国在住の北朝鮮のダミー貿易会社を通じてサムスン電気のテレビやデッキとともにコンテナでロスの港に着き、多額の賄賂と共に陸揚げされ、陸路ニューヨークへという経路だった。これくらいのことは北朝鮮にとって朝飯前のことなのだ。ところが、韓国政府は計画の内容までは掴んでいなかったが、北朝鮮が何かをたくらみアメリカに極秘に物資を送ろうとしていることは掴んでいた。しかし、太陽政策と称した最近の良好な北朝鮮との関係を壊したくないばかりに見て見ぬふりをしたのだ。大型コンテナはコンテナ用クレーンで持ち上げて船に積み込まれるが、港に設置されているクレーンは移動と同時に重さも瞬時に量ることが出来る。税関は、何十個もの同じコンテナーとインボイスを点検した結果、一個だけ約120キロ重いコンテナがあることを発見した。報告を受けた釜山港の税関と警察は即座に開封を命じ、中に得体の知れないものが搬入されていることを発見していた。しかも、北朝鮮のダミー会社が、サムスンの家族もちの輸出担当者を、女性を餌にして脅し、荷物を滑り込ませることに成功したということも警察は掴んだ。韓国政府もそれがまさか核爆弾だとは思っていなかったらしい。彼らが予想したのはヘロインということだった。これは北朝鮮ではよくあることで、純度の高いヘロインを国営の医薬品工場で製造して他国に闇で売りさばいていることは国際間では常識だった。韓国政府はこれくらいのことで北朝鮮の心象を悪くしたくなかったのでそのまままた封をして送りだした、というわけだ。外貨が慢性的に不足している北朝鮮では、なりふり構わず、ヘロインから偽ドルそれにミサイル関連技術に至るまで金になることならば何でもやる国家なのだ。驚くことに外交官がそれに関わり、時々偽ドルを外交官特権の郵袋に忍ばせて国外に持ち出すこともある。アメリカはこれを機に韓国に厳重な検査を要求したのは言うまでもないが、もうひとつ、表沙汰にはならなかったが、これを機にアメリカは韓国に見切りを付けた。その結果はいすれ韓国駐留の国連兵の部分撤収という形で表面化するだろう。

リー・ジョンイルとの連絡は、北朝鮮の工作員で国連の二等書記官になりすましているパク・ミンスクが中継してこの男に伝えられるが、パク・ミンスクは情報の内容は理解できないことになっているらしい。パク・ジョンイルからこの男に命じられていたことは、安全で意外な場所に核を設置し、常に目立たない生活をするようにということだった。この男はアメリカに潜入して既に8年を経過していた。普段は、ニューヨークの5番街の路地裏にある韓国人の経営する果物店で時間給の店員をして生計を立てていた。住居もアフリカ系アメリカ人が多く住むダウンタウンの雑居ビルの安アパートの一室に僅かばかりの家具と共に寝起きしていた。こういった冬眠している北朝鮮の工作員はアメリカ国内に数人いるはずだが、互いが互いを知らない仕組みになっていた。この男はパク・ジョンイルを心酔しているらしく、話の端はしに「偉大な領主」という称号が出てくるが、尋問が具体的になると、口をつぐんだ。しかし、FBIの尋問専門の捜査官の方が一枚上手だった。まず、この男の置かれている立場を誤解のありようがないほどに説明した。我々の国家では、お前の国と違って、尋問も紳士的に法律に従って行うのが普通であるが、例外がひとつある。それは国家存亡の危機にあるときには、いかなる手段も許される、とある。捜査官は特に「いかなる」と言うことに力を入れた。そして、何を思ったのか捜査官は、人間の人体の話をしだした。

「お前は今負傷しているが後一週間も経てば完全に回復するだろう。しかし、われわれはそれまで待つつもりはない。人間の苦痛はある時点まで行けば、体の防御機能が作動して意識を失い、それ以後の苦痛に対して反応しない。つまり、拷問してもある限度を超えれば拷問にならないというわけだ。しかしだな、脳髄の中のある部分を切断するとどうなると思う。意識を失うことが出来なくなるんだ。どんなに苦しくともその苦しみを共にしなければならない。ちょうど2年ほど前に一例だけこれを経験した男がいるのでそのビデオをお前にも見て貰いたい」と言ってスイッチを入れた。

そこには無惨にも激痛に体をよじりながら苦しむ男の肢体が記録されていた。この男は、と言ってまた捜査官が茶々を入れた。

「この男には常時注射により栄養剤を体内に注入し続けたので、二五日間も生き続けた。激痛の中で、だ」

そして、捜査官はこういった

「この拷問されている男よりお前の関わった事件は重い。お前にはもっと長生きしてわれわれの拷問に耐えてもらわないとな」

その間も大型ディスプレイには激しい痛みに体をよじらせて苦しみわめく映像が流れた。そして、こう捜査官は言った。

「いまから、これと同じ事をわれわれはお前に実行する。お前はここから逃れる手段はない。だがひとつ、チャンスをやろう。もし、おまえが全てを話すならば、しかる後に安らかに死なせてやろう。これはお前の問題だから、お前が選べ。でなければ、お前は若いからきっと生存記録を更新するだろうよ」

しばらくの沈黙の後、この工作員は早く楽になる道を選んだ。

政府内では大山一郎首相を中心に居並ぶ閣僚と補佐役の高級官僚との間に激論が戦わされていた。一秒でも早く、なるべく多くの国民にこのことを知らすべきだ、といかにも正論を吐く法務大臣。いやちょっと待ってください、このショッキングな内容を発表すれば国内がパニックに陥り、被害はもっと大きくなる可能性があります、という統計局長。この責任は誰が取るんだ、と場違い発言をする厚生大臣。30歳以下の将来を担う人々を優先的に移動させてはどうかと提案する文部事務次官。それをどうやって選別するんだ、未来小説と違うんだぞ言いだす経済企画庁長官。けんけんごうごうの中それまで黙って聞いていた大山一郎首相が口を開いた。自分の真正面に座っている防衛庁長官の補佐役田中寛一二等陸佐に問いただした。

「可能ですか」

「・・・不可能です」

「何か手は・・・」

「ありません。いちばん被害を少なくするには。このまま静かに」

大山一郎首相はこっくりと肯いた。周りの大臣と高級官僚たちはこの禅問答のようなやりとりを聞いていたが、また誰かがテーブルを叩きながら大声でがなりだした。どうすりゃいいのか、その責任にある諸官庁は提案すべきだ。老練で鳴る群馬県選出の首相経験者が立った。

「もし東京駅の地下ホームで三〇キロトンの水爆が爆発すればどうなるんだ」

「幸い、地下五〇メートルのところにあります。仮に三〇キロトンの核爆弾が地下ホームで爆発した場合、爆風のほとんどは地下にせき止められそのエネルギーは上に向かって吹き上がります。その瞬間駅近辺の地下道や地下街が全滅。地上に直径八〇〇メートルの穴を開け、上がった爆風は五〇〇〇メートルまで上がるでしょう。その粉塵を含んだ爆風が時間をかけて落下してきます。風向きにもよりますが致死量の微粒子が降りかかるのは半径四,五キロ。そのあと将来生命に関わるほど健康を害すると考えられる範囲は二〇キロに及ぶでしょう。ロシアのチェルノブイリ原子力発電所の事故の経過から見て、被害はもっと広がる可能性があります」

「では、都民の被害を最小限に押さえるには・・・」

「まず、駅周辺の住民を移す、これは可能かも知れません」

「半径どのくらいの住民だ」

「残された時間と人手から考えてせいぜい3キロの範囲でしょう」

「簡単に言うなあ。その3キロの範囲に何万人住んでいるのか分かっているのか。それに住民は理由もなしに動いてはくれないぞ」、と先ほどの厚生大臣。

それを制して大山一郎首相が、

「よし、わかった。今から三時間以内に対策案を作れ。今からわたしの権限を君に委譲する。各大臣に告げる。いまからこの田中寛一二等陸佐が最高責任者だ。全員彼の指示に従ってもらいたい」

「マスコミにはどう話します」、と官房副長官篠崎百合子が問うた。

「四時間後に記者会見を開くと伝えてくれ」、その後少し考えて、

「その時には各マスコミは責任ある立場の人間を同行すること。それに、これは極秘だ」、という条件を付けてくれ。

閣僚たちはひとまず自分の事務所に引き揚げていったが、篠崎百合子と田中寛一二等陸佐は互いに値踏みするかのように向かい合っていた。

「わたしは爆弾を何とか止めることに集中します。うまくいけばあなたの作戦が杞憂に終わるのですが、そうならなかった場合後はよろしく」

「あなたは爆弾処理に同行するのですか」

「そのつもりです」

二人の実務者は互いに見合った。年のころは同じだろうか、畑は違うが共に上昇志向の強い人間であるところは見て取れた。しかし、上に立とうとする人間はこういう時にこそその真価が試される。この田中寛一にはそれだけの仕事を背負うだけの能力も覚悟もあると篠崎は見た。あの大臣たちのように難事に右往左往しないところに好感が持てた。篠崎百合子は不謹慎にもこの男とならとことん飲んで後の介抱を頼んでも悪くはないと考えている自分に気づき、少し頬を赤くしたが誰も気づかなかったようだ。

「マスコミにはどう切り込むべきでしょう」

「自分はいつかこういう事が起こるのではないかと危惧していたので、いくつかの手は考えてあります。まず、国民を完全に騙さなければならない。少しでも疑いをもたれたら計画は失敗する。そして、緊急性とともに政府の指示通りに行動すれば安全が補償されるという確信を持たせる必要がある。この二つが満たされたらかなり成功に近づく」

「どういう嘘をつくんです。今度のケースでは、範囲を絞る必要があります。半径3キロの内に危険物が隠されているが、それがどこなのか不明のために、念のために3キロの範囲の全員を待避させる、とます発表する。その上で、その危険物の内容とその及ぼす危険度を説明する。そして後は政府の指示通りに動いてくれ、その結果の責任は全て政府が負うと。簡単にいってしまえばこんなものです。実際はもっと複雑な表現になりますが」

「で、その危険物とは、まさか核爆弾だとは」

「それでは影響力が強すぎます。今回は過激派による細菌爆弾がこの範囲の何処かに隠されているのでそれを探査し回収する。もしこの細菌爆弾が炸裂した場合は半径一〇〇メートル以内の人間は即死する、とするつもりです。被害を限定して他の住民に不安を与えないことですね」

「しかし、実際に核が爆発すれば被害は桁違いに大きい」

「そうです。そこでマスコミを使って念のために時間限定で外に出ないように訴えるのが半径5キロの住民です。それが難しい。弱く言えば効果がないし、あまり恐怖を与えると何か政府は隠しているのではないかと疑われる」

「なるほど、難しい局面だが後4時間後に自分が発表することになるのだと篠崎百合子は少し緊張した」

田中寛一が笑いながら言った。

「もし、この計画が成功したら、もちろん爆弾を止めるという段階ですが、いっぱいお付き合いを願いますかな」

「喜んで」と瞬時に反応する自分にも驚きテレながら篠崎百合子は、どんな難事にも余裕を伺わせる田中寛一に好感以上のものをもった。先ほどの篠崎百合子の瞬間的な表情は、この田中寛一二等陸佐に読まれていたのだった。もし、自分たちが失敗してもこの男の計画ならうまくいくかも知れないと篠崎百合子はそう思った。

高輪のプリンスホテルの最上階にあるスイートルームがノックされた。ジュ・デジュンはさっき注文しておいたルームサービスだろうと思い、後も振り向かずにドアーを開いて、テラスにおいてちょうだいと言った。

しばらくの間があって、相手はおもむろに言った。わたしはウエイターではない。

ちょうどバスルームから出てきた「朝・日友好貿易」の若い男は目の前の展開を見て唖然とした。ジュ・デジュンの話ではこんな事にはならないはずだった。警察も内閣調査室もわたしたちには手が出せないはずよ。なにしろ奴らの首根っこに核爆弾を突きつけているのだから、と昨夜の寝物語で聞かされたばかりだった。日本政府は、わが領主パク・ジョンイル総書記の言うがままに食料もエネルギーも金も要求されたものを断れないはずだった。わたしたちがこの東京でどれだけ金を使おうと日本政府がやがて支払ってくれるはずだ。だから楽しく故国では考えられないような優雅な時間を二人で過ごしましょう、と女は言って二度目の交わりの主導権をとったのだった。彼もこの夢のような世界に自分が招かれたことを喜んだが、果たしてそんなにうまくいくものかと心のどこかに引っかかるものがあった。そして彼の不安は現実のものになったようだ。彼の前で、スイートルームの入り口を占拠するように並んでいる男たちは、明らかに日本の警察か内閣調査室の査察官だと推測された。ジュ・デジュンは最後のあがきを展開した。

「わたしを誰だと思っているの。朝鮮人民共和国の偉大な領主パク・ジョンイル総書記直属の部下なのよ。わたしにもしもの事があれば国際問題になることを覚悟する事ね」、と一気にまくしだてたが相手はそれに動じなかった。

「それに総書記の通告はお前たちの無能な総理宛に届いているはずだけど。もし、わたしに危害を加えれば、東京は核の火で焼き尽くされることをよく覚えておく事ね」

それに対しても訪れた男たちは相手にせず逆にこう通告した

「ジュ・デジュンとその部下で愛人のリ・スンユだな。内閣調査室まで同行願おう。もし、お前たちが拒否すれば実力をもって連行する。この意味は分かっているな」、と冷静に対応して、続けてこういった。

「核爆弾は我々の手で撤去した。もうお前たちの脅しに乗る必要はない」

「嘘よ。みつかりっこないはずよ。それに、見つけたとしても撤去しようとすれば位置センサーが働いて五〇メートルも動かさないうちに核爆発する。それを解除しようとしても誰もあのパズルは解けないはずよ」

男たちはジュ・デジュンの話を聞いていないかのように、

「では、内閣調査室へご同行願おう。そこでお前がみつかりっこないと言った、また、一度セットされたものは移動できないと言ったロシア製K型戦術核を見せてやろうじゃないか。おい、そこの色男。はやく服を着替えてこい。その姿ではかっこ悪いだろう」、

と別の捜査官がうすわらいを込めていった。もちろん、着替えの間も二人の捜査員が片時も離れなかった。ジュ・デジュンも着替えるから部屋を出るように抗議したが、それは許されなかった。着替えるのなら我々の前でやってもらいたいがそうもいかないだろうと言って、ひとりだけ捜査に加わっていた婦人警官に見張らせることにした。

「ただし、おかしな動きがあったら即座に射殺することの許可は得ている。それに、ここにいる女性捜査官は射撃の名手だ。至近距離からなら、百円玉を打ち抜くことが出来る。おとなしくすることだな」

諦めてなるものか、ジュ・テジュンは最後まで戦ってこの腐りきった資本主義のブタどもを血祭りに上げてやる、そう信念を強くしてチャンスを待つことにした。

特別取調室に直行した捜査班は、別々に取り調べることにした。リ。スンユは捜査員が部屋へなだれ込んだときから諦めきっていたようだ。彼の心配事は、これから自分はどうなるのか、銃殺刑になるのかと係官に取りすがった。この男は小物だとみた捜査官は飴と鞭を使い分けることにした。お前がすべてを白状すれば命だけは助けてやろう。そして時期が来たら第三国へ逃がしてやってもよい。しかし、そうでなければお前の国でも同じだろうが銃殺刑は免れないだろうな。もう自白することはその目が語っていた。

それに引き替えて、ジュ。デジュンはしぶとかった。

「お前たちはわたしに対しては何も出来ないはずだ。日本の刑法は、尋問に拷問は禁止されている。それに死刑にするにも最高裁まで持って行くには一〇年はかかる。その内にわが偉大な領主、パク・ジョンイル総書記が私たちを救い出してくださる。わたしは何も話さない。お前たちブルジョワの手先には何も話さない。それに」、と言って二〇人はいる捜査班と関係者を前に大演説を打つつもりらしいが、それを手で制して東条が静かに尋問しだした。

「おまえはジュ・デジュンか」

それにも無言であった。

「それではわたしの方から伝えることにしよう。確かに、お前が言うように、日本国は法治国家だ。お前たちの国と違って尋問に対して拷問はおろか暴力は法律で禁止されている。しかしだなあ、ここで誤解の無いように伝えたいことがある。現在日本国内にはジュ・デジュンという名前の女も、リ・スンユという名前の男も存在していないのだ。従って存在してもいない人間を拷問にかけることは、法律が拷問を許したとしても出来ない相談だ。お前は日本国内に存在しないのだ。つまり、お前をどうしようと問題にはならない。それに、この場所は地図にも載っていない特別な建物でな、この建物の地下には大型の下水口が繋がっていて、お負けにどんなものも粉々に粉砕して跡形もなく掃除してくれる粉砕器とボイラーがある。言っている意味は分かるな。もし、お前が我々の質問に答えてくれたら、穏やかな死を迎えさせてそれを見届けたら焼却炉で丁寧に焼いて、最後は下水口から太平洋へ戻してやろう。そうすれば巡り巡ってお前の故国にも灰の一部が流れ着くかもな。しかし、そうでなければお前の国がいつもやっている方法でしゃべって貰う。ついでに知らせておくが、アメリカの工作員と核爆弾は撤去された」

それを聞いて、始めてジュ・デジュンは反応した。しかし返ってきた言葉は、

「嘘よ」、だった。

「そう言うだろうと思って証拠も取り寄せておいた」

と言って核爆弾の分解された写真と、例の尋問の現場の生々しい映像を披露した。FBIは工作員に穏やかな死を迎えさせる前に、少しお負けをしたらしい。少々約束は違ったがこれも致し方ないか。同僚の激痛に身をよじらせる画像を見て流石のジュ・デジュンも顔色が変わった。東条が続けた。

「われわれはこういう尋問はしたくないが、今回は特別だ。日本国を脅迫し三〇万人もの国民の殺害計画に加担したんだからな。この件に関してわたしは日本政府からすべての権限を与えられている。おとなしく話した方がお前のためだ。少なくとも穏やかに死を迎えられることを約束しよう」

しばらくしてジュ・デジュンは語り出した。しかしその視線の意味するところはそうではなかった。

2007年10月26日 (金)

永き眠りの後に#31-32

デッサン31

今度は警備員も初めからこの小娘が誰であるのか分かっていたが、それでも一応IDカードを出した。警備員が、お連れさんは?という顔をしたので、ジュディ・マクガイアは自分のアシスタントだと紹介した。今回は何の用かという疑問符が顔にありありと浮かんでいるので、ある不審物を探していると伝えた。不審物には確かに違いはなかったが、その不審物の名前を言ったら腰を抜かすだろうし、これが漏れたら一大事なので最後に、たいしたものではないが、ということも伝えておいた。そして、仕事柄頼まれたことはしなくては、お互いに給料を貰っている身だから、という訳だ。

二人組はまず、管理課へ行って建物の図面を見たいと申し出た。また怪訝な顔をされたのでIDカードを出した。担当者は、またハイスクールの研究課題に付き合わされるのかと思ったらしい。以前にも、ハイスクールの学生たちが大挙押しかけてこの建物のことを聞いていったのだった。その時には一騒ぎ起きて、誰かが非常ベルを押したらしく、けたたましい音に全館が避難する一歩手前まで行ったのだった。もうクソガキのお相手は懲り懲りだ、と言うのが担当者の言いぐさだった。お連れのマイク・ウエインもハイスクールの学生で通る童顔なのだ。とにかく、担当者は、子どもではないことを確認してほっとした。二人は図面をざっと見渡して、もしヤツが核爆弾を隠すのであれば地下の一,二偕だろうと予測を付けた。ボイラー室は地下二偕にあり、その空調管理室は地下一階にある。たぶん地下二偕が臭い。この点に関しては、マイク・ウエインは全くの門外漢で、ジュディ・マクガイアの勘が頼りだ。エレベータはチェックなしに地下二階まで行ける。たぶん、警備員が空調担当者に電話を入れて、担当者が確かに修理を依頼したと言うことになれば、ヤツは何の苦労もなく核爆弾を持ち込めただろう。一般では、裁判所の建物ならばチェックが厳しいと思っているだろうが、ここは侵入する者にとって盲点だ。

「マイク、カウンターは持ってきた?」

「持ってきたよ。だけどジュディ、もし遮蔽が完璧ならカウンターには引っかからないよ」

「万全でないことを祈りましょうよ。パキスタンの核でもあるしね」

「ジュディ、前にも言ったと思うけど、僕は無神論者なんだ。お祈りはできないよ」

「マイクったら、例えばの話よ。わたしだってクリスマスとイースターにしか教会には行かないけど、それに、お祈りはFBIの試験を受けたとき以来よ。おかげで合格したわ。今度も御利益を期待したっていいんじゃない」

「よく君はこんな大仕事を前に冗談言っていられるね。ぼくはすごく緊張しているんだぜ」

「わたしもよ、マイク。ほらここに触ってみて」

誰もいない地下室の片隅で、またハイスクールの学生同士のデイト気分になりそうになったが、確かに、ジュディ・マクガイアの胸の鼓動は高鳴っていた。これは恋人でもあるマイクと暗い地下に二人だけでいるからだけではないだろう。マイクはジュディの熱い胸に触った時に、近づきすぎて互いに見つめ合ってつい口づけしてしまった。我に返ったジュディは、少し顔を赤らめたが薄暗い廊下の隅でもあり、だれもとがめる者はいなかった。

ふたりは管理課から預かった鍵を使って、ひとつずつ部屋を開けていった。ガイガー・カウンターもまったく反応しない。ジュディ・マクガイアは、もしかして自分の推理は間違いではないかと思ったが、ここは彼女の持ち味でもあり、とにかく忍耐強く調べていった。地下二階の部屋という部屋は全てチェックしたが、不審な物は見つからなかった。情報によると、直径が二五センチ以上あり長さが六〇センチ以上、重さは百二十キロ、こんな代物が部屋の中に隠されていれば、見つかるはずだ。二人組は、地下一階に移った。どの部屋も個人のロッカーの中も開いて確かめた。天井裏はと考えたが、百二十キロの代物を、一人で天井裏まで持ち上げるような男は、オリンピックのウエイトリフティングの選手になれるほどの人間だろう。それは無視してもいい。しかし地下一階も異常なし。二人は一端コーヒーショップに引き上げて、頭の中を整理した。

「マイク。わたしたちは地下を全部調べたと思う」

「調べたと思うよ。残されているのは・・・」

「どこよ」

「真っ赤に燃えているボイラーの中だけだ」

「ちゃかさないでよマイク。わたしたち、本当に全部調べたのかしら」

「もちろんさ。廊下以外は全部調べたよ」

「・・・今なんて言った」

「廊下以外は全部調べた、と言ったよ」

「と、言うことは、廊下は調べていなかったということよね」

「でもね、ジュディー。どこの馬鹿が目立ちやすい廊下に物を隠すと思うかい」

「マイク。もし犯人が物を隠さなかったとしたら」

「なんだいそれ」

「もし犯人が、いつもそこにある物として置いていったら。みんなが見ているけど、気がつかない物として・・・」

ふたりはコーヒーをすすりながら、しばらく黙っていままでの捜査を反省していた。マグカップのコーヒーが半分ほど減ったときに、

「もう一度戻りましょう」、とジュディーが言った。

マイクは無駄だと思ったが、言い出したら聞かないジュディの性格を知っているのでしぶしぶついて行った。まだコーヒーには未練があったが。

警備員には、また来たかと嫌な顔をされたが、お構いなしにジュディーは建物の中に突き進んでいった。また最初からやり直しだ。今度は、最初素通りした廊下の窪みに置かれている物をひとつひとつ見て回った。ゴミ箱、置き場所に困ったのだろう古い空のロッカー。段ボール。掃除用具の棚。トイレ用品。普通は、一般の職員は入らないので、不必要になったものが空きスペースとして一時的に地下の廊下に放置されているビルは多い。それにしても、いろいろあるものだ。薄暗い地下の通路はやがて行き止まりになって、小さな窪みがあった。ここはさっきもチェックしたはずだが、窪みの隅の方に円筒形のパイプが立っていた。頭部に降り積もった塵の多さから見て、2,3年は経っているようだ。それに、小さな蜘蛛の巣が張っている。何かステッカーらしい物が貼られている。何て書いてあるのか・・・「修理中、移動不可」。何かの部品らしい、たぶんボイラー関係か。ふたりは背を向けてそこを立ち去ろうとして、ふと横に積まれている段ボールを見た。横面に二年前の作業日が書かれてあった。しかし塵はさほど積もってはいなかった。振り返ってもう一度円筒形のパイプを見た。そこだけいやに塵が積もっている。それに、その円筒形が置かれているところにだけ蜘蛛の巣があった。他の何処にも蜘蛛の巣はなかった。おかしい。段ボールの塵が2年前の塵なら、この円筒形の筒の上の塵は10年は経っているだろう。それにしては、ステッカーの文字は比較的新しい。不自然だ。ジュディーは地下一階の管理人を呼んで、これは何か見覚えがあるかと聞いた。だれも知らないと言ったが、ひょっとして前任者が、ここに置きっぱなしにしたのかも知れないといって、気にもかけないで去っていった。

「マイク。ちょっとゴミを取り払って動かしてみて」

「ジュディ。このパイプ、けっこう重いよ。一〇〇キロ以上あるんじゃないかな」

ジュディーの額に汗がにじんできた。

「マイク。このパイプがもし例の物だったら、動かしたらまずいかしら」

「少々なら大丈夫だと思うよ。ヤツもこれを何かに乗せて運んできたはずだからね。でも、ここからは運び出さない方がいいよ。もしも、ということもあるからね」

塵を取り払って頭部の表面を見ると、一二個のビスで蓋と思われる鉄板が留められている。サイズは直径が約三〇センチ、長さが一メートル弱ありそうだ。

「開けてみようか。その前にガイガーカウンターを当ててみよう。・・・反応はないな、たぶん君の思い違いではないだろうか」

「マイク。これがもし本物だったら、この蓋を開けたら爆発するかしら」

「それは無いと思うよ。なぜなら、君の話だと、犯人はこれを元にわが国を脅迫しているわけだから、スイッチオンにするにしてもオフにしても、この蓋を開けなければ作業は出来ないはずだ」

「マイク。この蓋を開けて。・・・マイク。本当に大丈夫なの」

「大丈夫、請け合うよ。もし、間違ったらごめんよ。その時は僕も君もニューヨークの市民もおさらばだ」

「こんな時、冗談は言わないでよ」

「ごめん、ごめん。開けるだけなら大丈夫だよ。これはただのケースに過ぎない。だからもしこれが本物だとしてもスイッチは本体の中にあるはずだ」

マイク・ウエインは工具を広げ、ビスを一本ずつはずしていった。簡単な作業なのにやけに時間がかかると思ったら、ドライバーを持つ指が震えてビスの中心になかなか入らないのだ。マイク・ウエインも軽口をたたいているが緊張しているのだ。ビスが12本全部はずされて蓋を開くだけになった。ジュディの目が開けてと合図した。本体と蓋の間にドライバーを差し込みそっとこじ開けた。中では青い光が冷たく数字を刻んでいた。同時に、そばにあったガイガーカウンターがけたたましいノイズを出し始めた。二人は、青い光に照らされた互いの顔を、無言のうちに見つめ合った。

デッサン32

今日の総書記は荒れていた。いつもなら整列して歓迎するスタッフを一巡して、その後に簡単な演説をするのが習わしだったが、きょうは全て無視して真っ直ぐエレベータに直行した。付き添いの数人がその後に従い、後の警備隊とその他の人間はその場に残された。総書記の警備には軍と警察から半々の陣容で互いに牽制し合うように組織されている。かれらは今日の出来事をひそひそと話題にしていた。そして、互いの上司にその事件の全容を報告していた。このような事件は、まず、あの公園を管理しているピョンヤン市の公園管理監督の責任が問われ、管轄の警察、それに警備の不手際で総書記の車へ手製の爆弾が投げつけられるのを阻止できなかった警備陣の責任が問われるはずだ。たぶん軍と警察は、互いに責任をなすりつけ合うことだろう。ちょうど一時間ほど前に、パク・ジョンイル総書記は6台の車を従えて到着した。その少し前には増強のため別の警備陣が到着、それに総書記の特別接待係の女性たちが到着し、緊張した館内は一瞬華やいだ雰囲気になったが、女性たちはすぐに支度部屋に消え、後は警備陣が邸内と館内の部署に張り付いた。女性たちも、ひとりずつ専門の検査官より足のつま先から頭の髪の毛にいたる全ての細部まで徹底的に調べ上げられ、その後に身繕いが許され、出番を待つのだった。その間、今日の総書記の気分や趣向が告げられ、衣装や化粧の作法が決まり、最後に出し物が決まった。総書記の気分が良くないことが伝えられると一同の顔に不安の表情が現れた。過去にも荒れた総書記と最後まで付き合わされた女性が遂に帰ってこなかった。いつそれが自分の身に降りかかってくるのか予測が付かない。だから「名誉な仕事」ではあるが死傷率は軍より高いのではないか、というのが陰の噂になっていた。そのパク・ジョンイル総書記はいつもの定位置に鎮座すると人払いをしてから、続けざまに二本の電話をかけた。それは北朝鮮内の某通信施設に送られ、他の商用通信と混ぜ合わされてから韓国経由でアメリカと日本の目的の人物に届けられた。

パク・ジョンイルは、自分を抹殺するための刺客が確実に近づいているのを肌で感じていた。あの手製爆弾はその始まりを表す物だろう。本命の刺客がその後ろに控えているはずだ。となれば、国内に協力する不穏分子がいることになる。でなければ、単独ではあんな大胆なことは出来ないはずだ。こういう時、頼みとする自分の取り巻き連中は無能な者ばかりだとパク・ジョンイルにも分かっていた。その連中を集めたのは他でもない自分自身だからだ。下手に頭で考えるヤツを手元に置けばいつ寝返るか分かったものではない。身の回りの警護は、体は動くがあまり深く考えない人物が安心だ。それにしても、とパク・ジョンイルは考えた。だれが刺客を送ったのか。アメリカか。そんなはずはない。脇腹にナイフを突きつけられている者が身動きできるはずがない。日本か。日本も同じだ。日本は半永久的に自分に貢ぎ物を毎年何十億ドルも拠出する運命にある。日本にはそれを断る手段も勇気もないだろう。アメリカも核爆弾が密かに大都市を狙っていては手も足も出まい。その後は、ゆっくり落としどころを決めさえすればめでたしめでたしと言うわけだが、少々予定が狂ってしまった。もし、自分にもしもの事でもあれば、跡目相続で国内は大混乱になり、わが国の人民が大挙南朝鮮と中国国境に押し寄せ、彼らはお手上げになるはずだ。だから彼らはわが国の政情不安がいちばん恐れている事態だ。では・・・まさか国内に自分を亡き者にするほどの力のある者がいるのか、いるとしても個人ではないはずだ。そこで考えを止めて・・・軍部か、または党書記局のチョー・リョクゼン一派か。あの男は侮れない。何かの機会に粛正しなければならないだろう。あやつは確かに自分の後釜を狙っている気配が見える。最近妙に軍部の連中に接近しているようだ。他の不穏な連中のためにもここはひとつ見せしめが必要のようだ。その理由か、理由なんか何処にでも転がっている。なければ造ればいい。簡単だ。パク・ジョンイルがいろいろ思いを巡らしているときに手元の電話に赤いランプがつき、例の通信所からの連絡が入った。電話先の通信士官はパク・ジョンイルに対して緊張しながら淡々と電文を読み上げた。勿論、最初に「偉大な同志マンセー」を付けることも忘れなかった。「東海岸の天候は晴れ、もう一つ、東京の天候は快晴」。パク・ジョンイルはにやりと笑った。押さえは異常なしだ。

その時、階下の事務担当官から緊急メモが届いた。送り主は思想警察署署長リ・ハンからだった。どこのルートから所在を聞き出したのか不明だが、そのメモには今日の事件に関係した内容が簡単に報告されていた。メモを読んでパク・ジョンイルは激怒とともに呆然とした。メモには今日の爆弾事件には日本が絡んでいる可能性があると記されていた。あの飼い犬のようにおとなしい日本が自分に楯突くとは。・・・しかし、わが国のエージェントは、東京は快晴と言ってきた。これはどういう訳だ。日本の大山一郎が自暴自棄になったとは考えられない。日本の政治家は賭はやらないはずだ。と言うことになれば、パク・ジョンイルはしばらく考えてひとつの結論に達した。これはやっかいなことになった。パク・ジョンイルは激怒のあまりメモの最後に書いてあったことを見落とすところだったが、思想警察署長リ・ハンのメモには締めくくりとしてこう書いてあった。「公園での爆弾騒ぎは、恐らくおとりだと考えられます。本命は、総書記が何処に隠れるかを予め予想して、そこで待機しているはずです」。

1偕の総書記直通の電話ががなり立てた。警備陣はすぐ上がってこい。あわてて総書記の前に出たロ・パク警備局長はパク・ジョンイルから渡されたメモを読んで真っ青になった。まさか・・・、この館内に暗殺者が潜んでいる可能性があるという訳か。しばらく考えてから、館長を呼んだ。3日以内にこの館内に入った組織は何団体だ。何をする者だ。今日までに不審な出来事はなかったか。矢継ぎ早に尋問に近い質問をされて官長はいつもの食料配送や雑用品運搬の業者と考えている内に、思い当たった

「今日、つい3時間前まで清掃班が入っていましたが、総書記がご来館になることが急遽決まりましたので清掃は取りやめさせました」

「その責任者を連れてこい」、と部下に命じ、その時に何かおかしな事はなかったか。

「今考えれば不思議なことですが、一階の明かりが一瞬消えて、点検した結果異常なしで原因不明のまま復旧しました」

ロ・パク警備局長は警備員全員に号令をかけた。

「持ち場につけ。外部からは誰もいかなる理由でも人は入れるな。おまえたち五人はここで総書記をお守りしろ。残りは俺に続け館内全域を捜索する。敵はプロだ、用心しろ」

それまで言うべきか黙っているべきか迷っていたが遂に打ち明けることにした。

「実は、地下室で不思議なことが・・・」

料理長が恐る恐る話し始めると、

「お前たちがくすねた食料品が、しばらくしたら元の冷蔵庫に戻っていたというわけだな」、敵はその時に地下に潜んでいた訳か。しかし、どうやってこの館内に侵入できたのだろうか。その時警備局長の電話が鳴り出した。清掃班の責任者をしょっ引きに言った者からだった。

「局長、この男は多額の金額を所持していました、しかもドル紙幣です」

「よし、そやつは所轄の警察に任せてお前たちは至急帰ってこい」

なるほど。これは警備陣の行動をつぶさに調べ上げた計画的な犯行だ。まず、ある地点で総書記が危険な事態になればどこの隠れ家に逃げ込むかを予想して、先に刺客を送り込む。方法は、多額の金を使って出入りできる業者を買収する。その上で、襲撃場所を設定して、今日のような行動に出て、一行をパニックに陥らせ、隠れ家に逃げ込ませる。そして、警備の手薄な時を狙って総書記を・・・。しかし、この計画には長い年月が必要だったろう。総書記の専用施設を調べ上げるだけでも何年もかかるだろう。そして出入りの業者を買収するにも金だけではなかったはずだ。そして事件を起こせばどこに逃げ込むかを予想して、たぶん館内も調べ上げているにちがいない。最後は自分の命も計画のために投げ出しおった。敵ながらあっぱれな奴らだ。ここは気を引き締めて当たらねば。但し、幸いなことに相手はひとりだ。こちらは総勢60人の警備陣、それにここは閉ざされ逃げようにもありの子一匹逃げ出せるわけはない。・・・そう言えば、記念公園で車列を襲撃した二人の男はともに老人だった。彼らは長い年月この日のために計画を練ったのだ。何のためだ・・・何のために外国と手を組んでわが国の指導者を殺そうとするのだろうか。

ロ・パク警備局長はしばらく考えてから、三階を徹底的に捜索して安全を確認してからパク・ジョンイル総書記とお付きの女性たちを上げ三階全体を閉鎖した。三階は一階や二階の半分の面積だ。捜索はしやすい。敵はまだ地下にいる公算が高い。地下からの出口はひとつしかない。後でゆっくりいぶりだしてやる。

海田真一郎は三階に上って驚いた。何も隠れるところがない。すべてどの部屋も見渡すことが出来る。三階自体がパク・ジョンイルに指名された者しか入れない。したがって3階は彼の私室も同然なのだ。

2007年10月25日 (木)

永き眠りの後に#29-30

デッサン29

ピョンヤンの人民大会堂から方々に高級車の群れが散っていった。いま、中国民芸団の歌劇は終わったらしい。その中から特に警備の厳重な一団が出発した。前後左右をそれぞれ2台のジルが、そしてその前をパトロールカー数台が先導している。この物々しさから、車列の中心に位置する防弾装備を施したスモークガラスのベンツに、誰が乗っているのか即座に判断できた。パク・ジョンイルは必要以上に決して人前には姿を現さない。車は沿道を通り朴日成広場に差しかかろうとしていた。ちょうど広場は地方から上京した市民や修学旅行の生徒でごった返していた。ここは観光客や修学旅行の生徒たちが必ず巡る要所なのだ。今日も大勢の集団が到着していたが、その中の一団が朴日成主席の銅像めがけてのろのろと移動しだした。しかたなく、先ほどの車列はスピードを落とした。それを見た交通整理の警官があわてて民衆を脇に寄せようとしたが、その瞬間、群衆の中から一人の男が飛び出し、手に持っていた箱をスモークガラス入りのベンツに投げつけた。それはフロントガラスの前で爆発し、白煙を上げた。驚いた警備陣は、一斉にその男に向かって発砲した。無数の銃弾が男の体を貫き、近くにいた民衆の一部にも被害が出た。辺りは騒然となり、車列は逃げまどっている民衆を引き倒しながらスピードを上げようとしていた。すると、真っ正面からもう一人男が出てきて、警備陣の車に手榴弾のようなものを投げつけた。今度は威力が大きくて、車は大破し警備官数人が爆風で倒れた。次の瞬間、後方からもう一台の警備車が猛烈な勢いでこの男に体当たりし、男は30メートルもはね飛ばされた。民衆はパニックになり、勝手な方向に逃げまどい、辺り一面は整理の警察官もお手上げの状態になった。その中を、車列を立て直した一団は、逃げまどう民衆をはね飛ばしながら猛スピードでその場を離れ去った。この間30秒足らず、後はまるで戦場のように死傷者が散乱していた。皮肉にも、倒れているのは愛国教育を受けた修学旅行の生徒たちや、主席の銅像を一目見ようと集まっていた熱烈なパク・ジョンイル賛同の民衆だった。惨事に巻き込まれた民衆の死傷者の原因は、警備陣が「暴徒」に発砲した際、辺り構わず乱射したことによる流れ弾に当たったり、その場を急いで離れようと群衆の逃げまどう中を突き進んだ車の衝突によるものだった。二名の「暴徒」の死体は警察の手で片付けられ、その他の事故に見舞われた大勢の民衆の始末は、ピョンヤンの人民病院の車が1時間後に到着した。そして、前代未聞の大事件であったにも関わらず、テレビにも新聞にもこの事件は一切ニュースとしては流れなかった。ただ、犯行調査の意味から党のルートと警察には速報された。

その速報を見た党思想調査担当の警官リ・ショーゼンは、取り乱し青くなって言葉もなかった。極秘ルートで流された事件の犯人は、年格好から、つい3日前、捜索願いと情報活動をしていたとして届けられていた二人の人物に似ていた。前もって情報を得ていながら報告しなかったことについて、上層部は、どうしてもっと早く知らせなかったのかと、責任を追及してくるだろう。さりとて、このまま情報を握りつぶしたとしても、暴徒の家族の方から情報が漏れるかも知れない。進退窮まって震えは止まらなかった。リ・ショーゼンは、これで自分の運命は既に尽きたと思った。

「暴徒」の遺体は、思想警察署の地下で安置された。これから調べなければならないことは山ほどある。まず、遺体をドライアイス入りの遺体安置箱に保存しようとして、「暴徒」の顔をまじまじと見て、リム・テク所長は思った。所持品は一切無いし、この二人はかなりの高齢だ。何でこんな老人が、しかも歯が立ちそうもない車列に向かって手製の爆弾で挑んでいったのか。この二人ははじめから死ぬ覚悟だったのだろう。しかし、何のためだ。事件の状況からして、この車列の主人が誰であるかを知っていたと見るのが妥当だろう。つまり、パク・ジョンイル同志に、自分の命を賭してでも晴らさなければならないような個人的な恨みでもあったのだろうか。この年格好も境遇も同じ老人たちに。

その時に、恐る恐る例の証拠品を持って、党の思想調査警察官リ・ショーゼンが入ってきた。最初、要を得ない説明にいらだったリム・テク署長に一括され、ますます緊張して震えながらも、とにかく事情を説明し終えた。結果、リ・ショーゼン警察官は即留置場に連行された。リ・ショーゼンは家族も含めて暗い将来を覚悟した。自分はいかなるお咎めも受ける覚悟でいるが、何も関係ない家族には責任が及ばないようにと哀願した。北朝鮮では、党の要人に反旗を翻すような大事件に関わった人間の家族は、見せしめのために連帯責任を負わせるのが普通で、今回のように大事件を見逃すきっかけを作った警察官に課される責任は、と言っても今回は事件自体が隠されているので刑の執行も極秘の内に行われるだろうが、ほぼ予想はついた。しばらく状況の整理をしていたテク署長は、部下二人にイ・ヒョングとリョ・テクの家族をしょっ引いてこいと命令した。1時間後、夜更けにもかかわらず、家族はけなげにも所長の前に立った。その表情から、この家族も自分たちの将来に暗雲が立ちこめていることを察知しているようだった。互いに寄り添いながら震えを止めようとしていたが、なにぶん初めての経験であり、今後のことが悪い予感として、走馬燈のように頭の中を過ぎっていた。テク署長はまず、イ・ヒョングの家族を尋問した。

連行された家族たちは脅しても痛めつけられても、今まで話したこと以外は何も知らないと言い張った。話を聞けば、確かに無関係であるらしい。これまで何もおかしなことはなかったのかと問いつめたが、何も出てこなかった。アパートはゴミのひとつまで調べ上げられたが、何も他には出てこなかった。月々僅かな年金で娘夫婦と同居して暮らしていた老人が、何で我らが尊敬してやまない同志パク・ジョンイル総書記に手を挙げたのか。考えれば考えるほど分からなくなってきた。リョ・テクの家族も同じような状況で、まったく信じられないような顔をしていた。あの穏和な父親が、あのような大それた事をしでかすなんて、息子夫婦には考えられなかった。それで、本当に父がやったのかと、テク署長に逆に問うた。それで二家族の夫婦は、ドライアイスに埋もれている傷だらけの父親の顔と対面させられて、はじめて納得した。傍らで観察していたテク署長は、この家族が言っていることはどうも本当らしいと直感し、この線からは何も出てこないだろうと思った。別の情報によると、最近この二人の老人は、もう一人の初老の男と川縁で一緒にいたということだった。もう一人いたのか、とテク署長は何となく不安にかられた。しかし、われらが同志パク・ジョンイル総書記は、一夜として自分の所在先を明かさない。だから危害を加えようにも、居場所が分からないはずだ。移動中は大勢の警備陣と装甲車のような車に守られている。群衆の前に出るときには、いつも周りを大勢の制服と私服の警備員に幾重にも守られている。そこで手出しは不可能だ。では何処で。宿舎が可能性としては考えられるが、その宿舎は厳重に守られ、その日になるまで、二十以上もある宿舎のどこに滞在するか誰にも分からない。・・・・呆然と思索に浸っていたテク署長はハッとして「もしや」、と独り言をつぶやきながら、緊急に党上層部に電話を入れた。党序列ナンバー三のパク・ミンジユ書記は署長の電話を受け、パク・ジョンイル同志の居場所は分からない、と答えた後に、同志は誰にも居場所を明らかにしないのだ、例えそれが党序列第三位のパク・ミンジュ書記であっても。「それはおまえも分かっているだろう」と高官は言った。署長の推測は、なぜあの二人の老人が、自分の死をも覚悟してパク・ジョンイル同志の車に危害を加えようとしたのか。あんなことをしても、パク・ジョンイル同志には蚊が刺すほどにも危害を加えることは出来ないことは、この「暴徒」にも分かっていたはずだ。分かっていたはずなのになぜやったのか。党への批判として、公衆の面前で死を賭したパフォーマンスか。ちがうだろう。この暴徒たちは明らかに、ここで事件が起きれば、パク・ジョンイル同志がどこに逃げ込むか知っていたのではあるまいか。そうして、もう一人の男がそこへ先回りして迎え撃つ。車を降りてくつろぐ同志は無防備だ。しかし、そうだったとしても、施設には五〇人からの警備のプロが守っていると聞く。一人で何が出来るものか。それにそこに入る手段も無いではないか。所長は疑問を持ちながらも、まず不可能だろうとの考えに至った。

それにしても、とテク署長は考えた。彼らは何のために、カネのためにか。隅から隅まで調べたが、あの家族には金目のものは何もなかったし、普通の暮らしぶりだった。つまり、かれらはカネのために、他国に協力していたのではなかった。では、何のために。テク署長は振り出しに戻った。貴重なたばこを三本ほどくゆらせた後、ふと思った。あの老人たちは、あの老人たちなりに、この国の行く末のことを思い、他国と協力したのではあるまいか。それなら納得がいく。証拠品のメモを見ても、情報のやり取りについてカムフラージュに使用した僅かな食料品以外、彼らが受け取った金品はない。もしかして、方法は許し難いが、彼らも彼らなりにこの国の行く末を憂いて、それが総書記暗殺の計画に至った動機ではないだろうか。・・・おっと、この考えはこの国では御法度だ。テク署長は、この件の疑問は自分の胸の内に締まっておくことにした。そして、先ほど留置した下級警察官のいる地下に降りていき、自分で鍵を開け、

「もう帰っていいぞ」、と言った。自分は大変なミスを犯し、良くて強制労働、悪くすれば銃殺刑を覚悟していた思想調査警察官は、その言葉が信じられなくて何度もテク署長のことばをかみしめて、はじめて安堵のため息を漏らした。これでまた家族と共に暮らすことが出来る。

「但し」、と所長が言った。

「わたしが呼ぶときには誰にも相談せずにすぐ出頭するように」

もちろん、という顔をして思想調査警察官はそそくさと帰っていった。その後もテク署長の不安は増すばかりだったが、どうしようもなかった。もうひとりの男が予めパク・ジョンイル同志の緊急避難場所を知っていれば、緊急避難で車列が到着する前に宿舎に潜り込み、同志到着を待ち受ける。車から降りた同志は警備陣がいても警護は手薄になるはずだ。そこを狙う・・・。その計画を錬るために3人が集まったところを目撃された。そう考えると、今度の事件は全部繋がりが出来る。これは大変なことになった。しかし、連絡の取りようがない。そしてしばらく呆然と考えた後、あの老人たちが考えたことが実際に起これば、わが国は今よりひょっとして良くなるかも知れない。おっと、これは寝言でも言えないことだ。しかし、運を天に任せるだけならだれも文句は言わないはずだ。それに、わたしは出来ることは全てやった。その最終的な結果はこの事態を招いた人物が取るべきだ。敢えて、名前は言わないが・・・テク署長はその間貴重なたばこをまた三本煙にしながら思った。それにしてもあの二人の老人の死に顔はやけに満足しきってさばさばしていたなあ。

デッサン30

その建物は要塞のように頑丈な造りだった。正面玄関のドアーは必要最小限のサイズでは全て防弾ガラス入りと見た。しかも事が起きればその前のシャッターが降りる仕組みになっている。一階の出入り口は正面玄関の他に裏手にスチール製両開きのごついドアーがあるだけで、清掃班はここから入っていった。三階建てのこの建物は二階以上の偕は普通の窓が並んでいるがどれも分厚いカーテンが掛かり内側で何が行われているのかは外からは伺い知ることは出来ない。しかし、僅かの時間ではあったが警報が切れている時に忍び込むことは難しいことではなかった。この館の主が不在な時には警備もゆるいのだろう。それにこの段階ではパク・ジョンイルがこの施設に逃げ込んでくると言うことは誰も知らないことだ。しかし、清掃班や警備の人間に知れると計画自体が流れてしまう。ここは丸一日隠れるとしよう。それにしてもあっけなく入れたことに少々力抜けしたが、たぶんイ・ヒョングが清掃班の責任者をうまく買収したのだろう。自分がイ・ヒョングに渡したドル紙幣は、たぶん北朝鮮では一家族が一〇年は食っていける金額だ。

イ・ヒョングの図面によると地下に食料貯蔵庫とワイナリーがあるはずだ。頭に入れた図面を頼りに降りていくと、果たして驚いたことに、どこかのレストランも顔負けするほどの食材と方々から取り寄せた酒類が薄暗い明かりの下に照らし出された。なるほど、彼の出っ張った腹にはそれなりの理由があったのだ。それと対照的な北朝鮮国民のあのガリガリに痩せた姿がよくニュースや隠れて撮られたビデオで見ていて、よくクーデターが起きないものだと思ったが、自分がいまやろうとしていることがクーデターだと気づいた。外部の人間が直接手を下そうとしているが、この計画にはイ・ヒョングとリョ・テクが深く関わり、命を投げ打ったほどの彼らの願いでもあるのだ。ならば。この「クーデター」は何としても成功させなければならない。海田真一郎は暗闇の中であれこれ思いを巡らした。たぶん、パク・ジョンイルと二人だけになるとこがあるはずだ。その時何と言おうか。たぶん、あまりうまくもない朝鮮語で彼が最大にショックを受ける言葉を話してやろう。それを手向けの花として。

海田真一郎はこれまでの無理が続いてついうとうと眠ってしまったが、誰かの話し声で目を覚まされた。時計を見た。午後の1時。あと2時間もすればパク・ジョンイルがここに逃げ込んでくるはずだ。声の主は、話の内容から施設の料理担当らしい。遠くてはっきりは聞こえなかったが、あのブタ、ということばはわかった。最初、食材の豚肉を言っているのかとおもったら、話の内容からそれはある人物を指していることが分かった。成る程、形容としてはピッタリだ。もう一人はここの専属警備員らしい。一方が相手のたばこに火を貸している。その内に、何か物を袋に詰めだした。パク・ジョンイル同志の趣向品をくすねるつもりらしい。指導者が指導者なら部下も国民も似てくるらしい。その時には麻袋のようなゴミ袋に冷蔵庫の中身を手当たり次第に放り込んでいた。その後、またある人物の悪口をさんざんやった後に一階に上がっていった。たぶんあの二人は料理長と警備の責任者だろう。でなければ、清掃班が入ったこの時間にたばこを吹かしたり国家の物資をくすねたりする時間はないはずだ。一計を思いついて海田真一郎は、そのゴミ袋に入っている食料品を元の冷蔵庫に戻し、ゴミ袋をその前に放置した。小一時間したころまた二人が降りてきてたばこの火を付けた。そのうちに空のゴミ袋が放置されてあるのに警備担当が気づいた。最初は不思議そうに辺りを見渡していたが、事態は自分たちの身に危険信号が点灯したことを感じ焦りだした。互いにわめき合いながら相手をののしり、その内に自分たちがくすねた物資が元のところに納まっているのをコック長が見つけた。二人は青くなった。誰かに知られてしまったらしい。ふたりはまた慌ただしく階段を上がっていった。これでこの建物に従事している人間は疑心暗鬼にとりつかれるはずだ。次第に上での物音が激しくなった。人の動きがあわただしくなり、互いにがなり合う声が海田真一郎の耳にはっきり聞こえてきた。その中に、清掃中止、と言う言葉が聞こえた。そのことは、急遽、パク・ジョンイルの一行が到着することを表していた。イ・ヒョングとリョ・テクがやったのだ。あのふたりが身を賭してパク・ジョンイルの車に向かっていったのだ。彼をこのアジトに導くために。そのために、たぶんふたりは生きてはいまい。海田真一郎は感傷的になりそうな身を引き締めた。

彼は頭にたたき込んでおいた建物の図面を思い起こした。地下は食料品の貯蔵庫兼倉庫。一階は厨房や警備陣、事務方の専用空間。二階は公式な空間、従って彼と、賓客や付き添いや警備の人員に例の美女軍団が乱舞する大広間がある。それとは対照的に三階はパク・ジョンイルの占有空間だ。ここに上がることが許されるのは、指名した人物だけで警備の人間も上がることは許されない。エレベータは二基で通常のエレベータは地下から二階までしか作動しない。もう一基は三階からしか作動しないものでどこに止まるのかは不明、というもので、たぶんイザと言うときの逃走用だろう。となれば一,二偕に通じるはずはなくたぶん地下かまたは直接外部に通じているのだろう。そこをどうやって三階に上るか、大勢の人間が詰めかけてからでは無理だろう。やるとすれば清掃班が引き上げて厨房と僅かの警備陣しか残っていない今だけだ。それには、先ほど仕掛けた疑心暗鬼がどのくらい通用するか、辺りはだんだん静まりだしたが外部との連絡は頻繁になった。たぶんいつものようにパク・ジョンイル同志の好みの美女たちや催し物の用意をするのだろう。トラブルがあったばかりだから今回はたぶん賓客は招かないはずだ。パク・ジョンイルは、今日は少々荒れることだろう。と同時に、責任追及の場にもなると思われる。その内に階上で点呼が行われているような気配がしてきた。海田真一郎は階上へ上っていくことにした。地下階段の陰から一階のフロアーを覗くと、全員が集められて責任者らしき男が何か伝達していた。たぶん、今からまもなくパク・ジョンイル同志が到着することになったので、いつものように準備万端怠りないようにとの訓辞だろうと海田真一郎は推察した。その他、細かいことをも聞こえたがそれは海田真一郎にはどうでもよかった。この瞬間を逃したら三階への階段に辿り着くのは困難だということは分かっていた。海田真一郎は階段横にある配電盤から一階の照明をオフにして一気に二階に続く階段を上りだした。窓という窓には分厚いカーテンが掛けられているホールは真っ暗になり集められていた人員は右往左往して互いがわめきだした。誰かが配電盤をチェックしろ、と言い、他の人間が、また停電か、これが総書記が到着してもまだ続くようだと電力省の責任問題だな。停電ではない。エアコンは動いている。至急配電盤を中心に点検しろ。全員が暗い中のろのろと動きだしカーテンも開けられた。やがてフブレーカーが落ちているという声と同時にホールが明るくなった。誰かがブレーカーを入れたらしい。なぜブレーカーが落ちたのかについての詮索は目前に迫っている総書記の来館を前にして後回しになった。その後、次々に車が到着しいっそう慌ただしくなった。華やいだ女性の話し声が聞こえパク・ジョンイルお抱えの女性たちが到着したらしい。彼は、一日たりとも女なしでは過ごせないのだ。海田真一郎は二階を通り越して三階に向かった。もしかしてドアーに鍵がかかっていれば階下の小さな収納部屋を頭に入れていたが、その心配は杞憂に終わった。清掃班が到着したときに鍵は開けられたままになっていたのだ。まだ西側の人間は誰も入ったことのない大奥に海田真一郎は入っていった。

アメリカ軍情報将校は、この北ベトナムの若い兵士をどう扱ったものか苦慮していた。と言うのが、尋問には恫喝も拷問も加える必要はなく、何でもすらすら答えるのだった。これまで何十人と北ベトナム兵を尋問してきたが、どの兵士も抵抗して、拷問の後に口を割ったケースがほとんどだった。中には死んでも口を割らない者もいた。ところがこの兵士は、何の躊躇もなく聞かれたことに答えた。最初尋問した尋問官は偽証かと思ったが、そうではなかった。予め、こちらで調べておいてそれを伏せておいたことにも正確に答えたのだ。この捕虜は、北ベトナム軍の兵士としては珍しいタイプだった。最初、北ベトナムに反感を持っているのかと考えたが、そうではなかった。なぜこんな無謀な作戦に、しかも、陽動作戦の捨て駒ということも知らされずに使われたことにも、特別な反発もなかった。この捕虜はまるで機械のようだった。感情というものの起伏もなく、ただ淡々として取り調べに応じ、三度の食事もよく食べ、時間が空くとよく眠った。また、銃殺刑の脅しにも反応しなかったが、尋問しているうちに意外な一面も見つかった。何度も尋問している間に、最初は全く英語に反応しなかったのが、ある時点から分かってきたらしく、通訳が伝える前に答えだした。それも英語のたどたどしい単語で。それをガラス越しに見ていたCIA(アメリカ中央情報局)の捜査官がおもしろい実験をした。ゲームのようなやり方で、思想や行動基準をチェックしながら、知能も検査した。例の数字が羅列されているのをどこまで記憶できるかについては、信じられないことに、タイプで打たれたA4紙いっぱいの数字の正確な合計を即座に答えた。驚いたことに、ウエクスラー式IQテストで並の人間はせいぜい120のところを170を出した。語学も抜きんでていた。3ヶ月の拘留期間に、英語での会話には何の支障もないほどになっていた。それで、最初アメリカ軍はこの男を軍の諜報員として使おうと考えたが、心理検査の結果危険であることが判明した。つまり、彼の精神構造には、よって立つ母国という概念がなかったのだ。と言うことは、かれは敵にも味方にもなることが出来るがそれが、いつ反転しても不思議ではないことになる。彼にとって、体制も反体制も、アメリカも北ベトナムも、それはどうでもよいことなのだ。だから、尋問されたら自国の軍機密も躊躇なく答えることが出来たのだ。この男をアメリカが使えば、逆に敵に捕獲された場合今回と同じように、何の躊躇もなくこちらの情報を話すだろう。この男は能力を秘めているが使えない、これがアメリカ軍情報機関の結論だった。

それとは逆に、CIAはこの男が欲しくなった。しかし、この男の身分はアメリカ軍に捕獲された北ベトナム軍の捕虜である。いくらCIAでも勝手なことは許されない。しかし、この男を担当したCIA捜査官は、免品が現れた、至急この男をCIAの管轄に移されるよう長官から陸軍省情報機局へ要請されたし、と至急電を打った。それから程なく、この若い北ベトナム軍兵士はCIAの本拠地ラングレーに降り立った。そしてジャングルのゲリラから、こんどは都会というャングルでの生活術を享受させられることになった。訓練では語学、特に日本語習得に大半が割かれたが、他にロシア語と北京語、それに朝鮮語がそれに加えられた。3年の訓練期間の間に、日本語はまったく現地人と見分けが付かないまでになり、他の言語も、意志を伝えるには問題ないほどになっていた。その上で工作員としての実地訓練が加わりひとりのカンパニー(CIAの俗名)の社員が誕生した。しかし、様々な訓練の結果、彼は益々自分の祖国とは何かが希薄になっていった。彼にとって強いて言えば、祖国とは自分自身のことだった。こういう人間は決して工作員としては使えないが、あらゆる角度からテストした結果、唯一確かな概念が浮かび上がった。それはおかしな事に、ユダヤ・キリスト教国家以外で育った人間ではあまり例のないことだが、強力な契約概念を持ち合わせていたのだ。つまり、双方が契約した事項については、命をかけて守る。もしどちらかの一方が、互いに交わした契約を破った場合は死をもって償うということだ。そしてこれこそがカンパニーと彼との唯一のつながりとなった。

2007年10月22日 (月)

永き眠りの後に#25-26

デッサン25

マンハッタン島のロウア・マンハッタンにはU.S.コートハウス(合衆国裁判所)がある。裁判所は厳重な所持品検査と金属探知機を通り、幾重にもある警備員監視の中、ビデオカメラに追っかけ回されながら、やっとお目当ての法廷にはいることが出来る。もちろん、裁判の傍聴は自由だがうんざりするほどの警戒網をくぐり抜けなければならない。裁判所の召喚状や法曹界に所属している身分証明書があっても手続きは変わらない。しかし、裏手の、ボイラー室にはひとりの警備担当者の目をかいくぐれば難なくはいることが出来る。コートハウスの裏手にボイラー・エアコン修理会社の黒いバンが駐まっていても誰も怪しまなかった。ボイラーの部品はキャリアで運び出され、警備員の前に来た。実はこのためには用意周到な計画があった。まず、何日もかけて物の出し入れがどう行われるのか監視した。それで複雑な手続きはなさそうだと言うことが分かった。次に、警備員の立ち振る舞いを調べた。正面玄関の厳重な監視体制とは裏腹に、ここでのチェックは甘いとみた。インタホンで担当者に連絡して間違いがなければ通ることが出来る。後は不具合が出るのを待つだけだが、故障は作ることも出来る。

呼ばれた修理会社のバンが路肩に駐まっているときに、アジア人が裁判所は何処だと聞いてきた。おまえ、目はついているのか、この建物だと言った瞬間に目の前が暗くなった。次にバンから降りた修理工は修理機材一式と共に警備員の前に立った。インタホンで連絡を取った警備員は何の疑いももたず顎で合図した。簡単なものだ。まず、地下二階に降りて人気のない場所の窪みに目立たないように丸い筒を立てておいて、ステッカ「修理中・移動不可」を貼り付け、本来の修理備品をボイラーマンのところに届けた。円い筒は外観は普通のパイプのようだが、複雑な形状のふたを開けると生き物のように青いデジタル数字が時を刻んでいた。

その日のニューヨーク・タイムズには三面記事の下の欄に空調修理会社のスタッフが、突然の心臓発作で死亡したという記事が載っていたが、だれも気に留めなかった。それよりも、株の値動きに関心があったようだ。この死亡記事が関連して、将来株価が急激に乱降下する可能性があるということを知っていれば、もう少しは関心を示しただろうに。もう自分一人を除いて、この核爆弾を止めることは出来ないという現実の前に、男の顔は高揚し、かってないほどに精気がみなぎるのを感じた。さあ、あとは我らが同志パク・ジョンイル総書記の指示を待つのみだ。彼は、久しぶりにダウンタウンの安アパートでひとり寂しい祝杯を挙げた。

しかし、ひとりのFBI捜査官ジュディ・マクガイアはオヤッと思った。警備員のインタビューには、とても心臓発作で死ぬような人間には見えなかったと言った、と新聞には載っていたからだ。そう、突然死はやってくるものだ。しかし気になったので、ジュディは無駄だとは思ったが訪ねていくことにした。但し、机上の書類を整理し終わったら。そうこうしているうちに、新聞記事のことは記憶から消え去ったかに見えた。ジュディ・マクガイアは若いFBI捜査官でやる気満々だが、いろんな事に首を突っ込みすぎていつも上司に叩かれるのを常としていた。三歳の子どものように、いつも「なぜ・どうして」を連発するので、同僚もそれにまいったらしく彼女が近くにくると視線をそらす。それにもめげず、後ろ向きになった同僚のシャツの袖を引っ張ってなぜを連発するので、お嬢ちゃんそれはねえ、とふざけるのが同僚たちの仕返しことばになった。ジュディ・マクガイアは童顔でもあるのだ。

デッサン26

「わたしが誰だか分かりますか」、と恐る恐る尋ねた。

「浜崎あゆみさんですね。あなたのことは最初に面会にいらっしゃったときから認識していました」

「エッ。では、あなたは全部わかっていたのですか。十歳の時から今までのことを」

「はい。このベッドで見る範囲、聞こえる範囲のことは全部理解できました。ただ、それに反応することができなかったのです。ですから、このサナトリウムの中で聞こえる会話、音楽、テレビの情報は全部私の頭の記憶に仕舞われています。あなたが父と知古の間であることも、あなたのお兄様がこのサナトリウムにおられることも」

「わたしはあなたのお父さん海田真一郎さんの部下でした。お父さんは事情があってあなたのお世話をわたしに依頼しました。わたしの兄の治療も含めて多額のお金と共に」

「父は亡くなったのですか」

「新聞によると、昨年火事で亡くなったそうです。しかし・・・」

「父は生きている、と言いたいのでしょう」

浜崎ゆかりは無言で答えた。海田みどりはほとばしるように話し出した。

「父は生きていると思います」

それから長い対話が続いた。驚いたことに、海田みどりの知性は十歳で止まってはいなかった。まるで昨日から目覚めたかのように、色々なことを知っていた。どうしてそんなに知ることが出来たのかと聞いたら、

「看護師の人たちがベッドの傍らで広げる新聞やテレビの情報、ラジオ、看護師や医師の会話を通して。嫌なことも聞きました。たぶん、わたしが植物人間になったとしてどんなことを話しても無害だと思ったのでしょう。ですから、わたしはその人の本当の姿、人間性を知ることが出来ました。わたしの前ではみんな正直に自分をさらけ出したんです。ある看護師と医師はわたしにずいぶんひどいことをしました。わたしは今まで「モノ」だったのです。でも、わたしの内には他の人間と同じ意識が覚めていたのです。ただ、それを表現することが出来ませんでした。あの、出来事を境にわたしの感覚は視線を動かすことも出来なくなり、指一本動かなくなりました。もちろん表情もありません。幸いなことに施設では、わたしの体を健康に保つために様々な運動やマッサージをしてくれたおかげで少しなら今も動かすことが出来ます。もうしばらくしたら歩くことが出来るかもしれません」

驚いている浜崎あゆみの目をみつめて、

「あゆみさん。あなたはわたしに誠実をつくしてくださいました。ありがとう」

二人は涙が流れるままで手を握り合った。そして、また海田みどりが話しだした。

「わたしがどうしてこうなったか知りたいでしょう。わたしもあなたには知っていただきたいのです」

長い夜になった。まるで、一五年分を一挙に話しているようだった。話を聞いて浜崎あゆみは、海田真一郎について謎が解けたような気がした。海田真一郎はエイコー電気の経理担当として会社に所属していたが、それはうわべだけのことで、本当の使命をカムフラージュするための手段だったのだ。そこまでは浜崎あゆみにもうすうすと感じていたが、それが何のためなのかまではわからなかった。今それが一挙に明らかにされようとしていた。目眩がするほどの出来事に、信じられない思いだったが、これが現実なのだという思いが強くした。そうだったのか。

「母の本名はチェ・デジュン、国籍は北朝鮮です。でも父に近づいたときの名前は村山朝子、北海道室蘭の生まれだと言っていました。母は、父、海田真一郎を見張るための北の工作員でした。父は日本名、海田真一郎ですが、わたしにも本当の国籍はわかりません。ただ、父はアメリカと関係があったと思います。ある時、父は自分の情報が漏れていることに気がつきました。そしてその相手が自分の妻であることを知りました。たぶん、父は母を愛していたと思います。母は、その父を監視するために送られた工作員でしたが、普段はごく普通の仲の良い夫婦でした。二人ともわたしを愛していました。でも、わたしよりももっと愛するものが、もっと重要で意義深いと思えるものが二人にはあったのです。互いの信念なのかもしれません。それがある日衝突しました。父は証拠を母に突きつけました。母に逃げ場はありませんでした。もう夫婦でもなければ男と女でもなく敵対する国同士の工作員でした。どちらかが死ぬ運命にありました。でも、わたしはまだ一〇歳の子どもだったのです。何もわからないわたしの前で父と母は争い、父は母を殺しました。そして、母の遺体をどこかで始末しました。わたしはその時のショックで倒れてしまい、目覚めた時には何の反応もない植物人間となっていたのです。父は何度も何度もわたしの名前を呼び詫びました。その後、父は職場の近くの施設にわたしを預けました。滅多に面会には来ませんでした。世間には、母が失踪したという触れこみで取り繕ったようです。だれもそれを疑いませんでした」。

一区切り話し終えて海田みどりは、別の話題を切り出した。

「あゆみさん、三〇年蝉ってご存知ですか」

あまり突飛な質問に浜崎あゆみは面食らっていると、

「ある種の蝉の仲間は、三〇年以上土の中に潜んでいて三一年目に目を覚まし、短い時間地上に出てきて、鳴くという使命を果たしてまた三〇年土の中で眠っているそうです。・・・父はそれだったのではないでしょうか。何のために、それは聞いても意味のないことだと思います。父はそうするように生まれついてきたのでしょう」

浜崎あゆみには理解を超えることで、何と返事をして良いのかわからなかったので、ただうなずくしかなかった。

一五歳になったばかりの少年は、カラシニコフ突撃銃を構えて塹壕の中から這い上がろうとしていた。辺り一面は昨晩からのスコールのためにぬかるんでいて、這い上がろうとしてもがく割には前進できない。敵は余裕をもって彼らを取り囲んでいる。ほふく前進でじわじわと囲いの緩いところを目指して移動しようとするがそれがどこなのか見当が付かない。すぐ横の仲間がこの緊張感に耐えきれなくなって立ち上がり背後の塹壕に向かって駆けだした。しかし、その兵士は塹壕に飛び込む前にシュツと空気を切るような音と共に頭からくずおれた。兵士の胸にはこぶし大の穴が開いて息絶えていた。暗視スコープ付きの狙撃兵にやられたのだ。まもなく夜が明ける。このままでは我々は全滅だ。総勢一五人で行動する小隊は既に先頭に立った小隊長がやられ短時間のうちに兵士五人が死んだ。副隊長の方に目を向けると、頭をぬかるみの中に突っ込んで震えている。年端もいかない少年たちだけで組織された小隊はまもなく全滅しようとしていた。

一九五六年四月インドシナを実効支配していたフランスがサイゴンを引き揚げ、その後非公式にアメリカ軍事顧問団が南ベトナム軍の訓練を開始。それに対して、北ベトナム労働党は南部武力解放戦線を決定、武力でベトナム統一を果たそうという構想を発表した。それに対してアメリカも軍事顧問団の増員を決定し、本格的にベトナムに介入したが、その初期の頃、アメリカ軍事顧問団の野営地を、夜襲攻撃を試みた解放戦線の小隊があった。取るものもとりあえず組織された軍隊とは名ばかりの若者たちは、捨て駒としていちばん危険な任務に就かされたのだ。装備の面からも経験の面からも大人と子どもの戦いになったこの戦闘は、実は、北ベトナム軍がアメリカ軍の戦いぶりをテストするためのものだった。アメリカの戦法は、夜明けと共に辺り一面に迫撃砲を乱射して敵を驚愕させ、戦意を喪失させようという作戦だ。アメリカ軍陣地には物資は山ほど積まれている。この少年部隊は応戦するどころか迫撃砲の前にただ頭と耳を押さえてじっとしているのが関の山だった。恐怖に錯乱して立ち上がる兵士もいたが射撃の標的のように即座に倒れた。彼らは、一発で殺そうとはしなかった。まず、足首を正確に狙った。そして自由を奪って少しずつ致命傷になる部分を狙った。ハンターが獲物をいたぶるのと同じだ。ひとりまたひとりとその餌食になっていった。一時攻撃がやみ見渡すと、辺りは味方の若者の無惨にちぎれた死体が点在していた。アメリカ軍はこれで解放軍は全滅と思ったのだろう三人の兵士がMKライフルを構えながら確認のために近づいてきた。

その時、味方の死体の下に隠れていた一人がカラシニコフをフルオートにしてカートリッジが空になるまで打ちまくった。驚いてアメリカ兵が銃を構えたときには遅かった。銃弾は三人の兵士をボロ雑巾のようにずたずたにした。初めての至近距離からの発砲だった。異変に気づいた後方のアメリカ軍は再び迫撃砲をめちゃくちゃに撃ち出した。生きているのは自分だけだと言うことを確認しながら、その若い兵士は逃げ回った。ジャングルまではまだ2キロはある。あそこに逃げ込めば助かる余地はあるが無理だと思った。後続の兵士が追っかけてくる。ぬかるみの土壌に足を取られながら死にものぐるいで逃げたが遂に流れ弾が左腕をかすった。しかし、人間は必死の時には頭脳はすごい勢いで回転するものだ。互いに走りながらの射撃は特に足場の悪い場所でならなおさらのこと標的に当てるのは至難のわざだ。何を思ったのか彼はその場にしゃがみ込み狙いを定めて三発連続して撃った。銃弾は一番前を追ってくる兵士の頭に当たりそのアメリカ軍兵士は仰向けに倒れた。あとの二人の兵士はそれを見て背中を向けだした。もうこっちのものだ。ゆっくり落ち着いて狙いを定め八〇メートルの距離を逃走していくアメリカ兵を一発づつでしとめた。迫撃砲がまた攻撃してきたが距離がありすぎて危険ではなくなった。やがて南ベトナム解放戦線の若い兵士はわが家であるジャングルに辿り着いた。

彼はその功績を認められ一六歳の若さで部下14人をもつ解放戦線の小隊長になっていた。幾度となく夜襲をかけ、敵を混乱させ短時間のうちにジャングルへ引き揚げる。これが南ベトナム解放戦線の手口だった。物量を誇るアメリカ軍と正面切っての戦闘では勝ち目はないが、ゲリラ戦では地の利を生かした現地の人間で組織する軍の方が有利だ。それに、正面の敵である南ベトナム軍は腐敗が広がっていて腰が据わっていなかった。彼らは攻撃されると撤退するのが常だった。こんなことに命をかけることもあるまいと言う訳だ。まだ正式に「ベトナム戦争」と名指しされる戦争が始まる二年前のことだった。

しかし彼の中には、なぜ戦うのか、という明確な理由はなかった。彼が北ベトナム軍に参加したのも、フランスとの長期にわたるインドシナ紛争で家族も家も失い、独り取り残されなにもすることがなかったときに共産軍、後のベトミンと呼ばれる軍隊に参加したのだ。ここに居さえすればさしあたり食うのには困らない。別に自分に思想があり社会主義に傾倒したり、国家独立を熱望したわけではなかった。彼にとってこの世界が、どういう社会体制であっても誰が指導者になろうともそんなことはどうでもよかった。彼が求めたのは一夜のねぐらであり三度の食事であった。それがたまたま北ベトナム共産軍であっただけのことだ。その代償が日々命の危険と隣り合わせであっても一向にかまわなかった。彼には、自分自身の命さえそう愛着はなかったのだ。それにインドシナというところはあの時代どこにいても、危険という点では大して変わりはなかった。

そしてジャングルでの攻防が一年も続き、彼もひとかどの人物として認められるようになっていた。ベトミンが次に彼に与えた命令は、サイゴンのアメリカ大使館に攻め込んで出来るだけ被害を大きくする、ということだった。これには流石の彼も一瞬怖じ気づいたが、次の瞬間ではやると決心した。選んだ部下は五人。いずれもホー・チミンを敬愛するばりばりの社会主義信奉者たちだった。六人は南ベトナム農民の服装をしてそれぞれが別行動を取った。一日かけてサイゴン市のアメリカ大使館から約1キロ離れた公園に集合した。六人は天秤棒の両端に野菜篭を担いだり、自転車に日用雑貨を積んでいた。野菜の下にはそれぞれ手榴弾とカラシニコフが分解されて隠されていたがそれを疑う者はなかった。夜中の2時それは決行された。バリケートで幾重にもガードされている外壁を突破するのは不可能と見たかれらは正面から侵入する道を選んだ。まだ戦闘が激しくなっていないときでもあり、正面の警備は手薄だった。それでも海兵隊4人が任務に就いていたが、突然後方の裏門の当たりで爆発があり海兵隊二人が飛んでいった。その隙に手榴弾とカラシニコフを乱射して一挙に邸内へ突入した。アメリカ大使館側では意表をつかれ右往左往したがやがて体制を整え、南ベトナム軍の首都警備隊が到着するまで何とか持ちこたえた。そして彼らは袋のネズミとなった。

その1時間後、北ベトナム軍本体がゴ・ジンジェム大統領官邸になだれ込んだ。隊員の大半をアメリカ大使館に差し向けていた首都防衛軍は大量の敵の前に防戦するのが精一杯であった。それまでの戦況報告では共産軍も首都サイゴンまで攻撃する能力はない、と言われていたが南ベトナム軍の判断は甘かった。それは、善悪は別にして、主義・大儀のために戦うように訓練された北ベトナム軍と、生活のため給料のために働く南ベトナム軍との戦意の差だった。幸いゴ・ジンジェム大統領は難を逃れたが、彼の受けた傷手は取り返しの付かないものになってしまった。首都サイゴンさえ安全ではないという市民の意識を作ってしまったのだ。そしてそれは、北ベトナム軍が南を揺さぶるという作戦が成功したことを物語っていた。そのために非情にも6名の若者が今度も生け贄に供されたのだった。数百人に取り囲まれた北ベトナムの若い兵士たちはもはやこれまでと思ったのだろうか、玄関を守っている海兵隊に向かって無謀な突撃を開始し、集中砲火の前に5人がボロボロになるのに10秒もかからなかった。ひとり生き残ったグエン・チャンはアメリカ軍に降伏した。

デッサン26

合名会社「朝・日友好貿易」に動きが出てきた。

ジュ・デジュンはどうも会社をたたむらしい。喫茶店の2階に居を移して見張りを続行していた山本と景山の目の前で、トラックに荷を積み込んでいる者や、看板を下ろしている者、それにいつもシャッターを下ろしている窓も開けっ放しで作業をしている。もうここには秘密にするものは何もないということか、と山本は思った。相変わらず2階の窓からはジュ・デジュンの電話している後ろ姿が見える。斜向かいの電柱には電話会社の修理作業員が電柱によじ登り作業をしている。なかなか作業は難航しているようで、降りてこない。その近くには窓のない電話会社のバンが駐まっている。

普通の会話は延々と続き、相手先の番号は即座に突き止められた。どうして会社をたたむという緊急な状況の中で、ジュ・テジュンは世間話をしているのか。しかも相手は朝鮮総連のリ・ハングル参事官。これは日本側にわざとリークして本気度を示すつもりではないか。

「これから旅行に出るつもりです」

「準備はすみましたか」

「すべて整いました」

「旅行には事故はつきものですが・・・」

「もし、事故でわたしが帰らなかったらたくさんの花が枯れてしまうでしょう、悲しいことでが・・・・」

取るに足りない話を日本側に聞かせたい訳だ。そこで言いたいのは、もし自分にもしものことがあれば東京のどこかに隠されてある核爆弾がその性能を発揮し、多くの国民が、花が枯れるように死んでいくことを暗示しているのだった。この情報は即座に内閣副官房長官篠崎百合子に報告された。そこには東条とセルゲイ・バッハービッチがいたが、

「あとは貴国の偵察衛星が微弱な電波を拾ってくれるか、相手が動いてくれるかしか発見の見込みはありませんな」

東条も手詰まりの状況にいらだっていた。

「一挙に、ジュ・テジュンを逮捕して締め上げてもう一人いる人間を吐かせたらたらどうでしょう」

「危険すぎる。もし、ジュ・テジュンが逮捕された事が知れて、相手が逃亡したり、カンビールのスイッチを入れたら取り返しがつかない。ジュ・テジュンは旅に出る、と言っていましたが。今のところその気配はない。それどころか、高輪のプリンスホテルに投宿している。どういう訳だ」

「たぶん、日本側は自分には手出しは出来ない、と読んでいるのでしょう。しかし、仕事を終えてどうやって国外へ脱出するつもりでしょう。逃げ場はないはずですが」

「逃げるつもりはない、と理解した方がいい」、傍らで聞いていたミハイル・ヤノーシュが言った

「ジュ・テジュンはこの使命と共に故国のために、といってもパク・ジョンイルのためだが、使命を果たした暁には殉死すると考えた方がいいと思います」

一同は互いの顔を見合わせた。そこに合資会社朝・日友好貿易を見張っていた山本と景山が入ってきた。開口一番、

「ジュ・デジュンも女ですなあ」、と山本が言った。

「どういう事だ」

「ジュ・デジュンには貿易会社に勤務している一人の青年と男と女の関係にある。我々が見張っている間に少なくとも二回は夜を共にしています」

「どの男だ」

東条は朝・日友好貿易の職員全員の写真を卓上においた。パスポート写真のコピーと望遠レンズで隠し撮りした写真を添えてあった。山本と景山は即座に、この男ですと言った。

「パク・ヨンヒル25歳、いい男だ。この男がジュ・テジュンの男か。もう一人の男とはこの男ではないだろうな」

「その線はないと思われます。ジュ・テジュンもそんな危険は犯さないと思います」

「恋は盲目と言うぞ」

ソニア・ヤーノシュが言った。

「たぶん、この男はただの慰めものだと思われます」

それまで何も口を挟まなかったセルゲイが発言した。

「ひょっとして、もうひとりの男とは、作り事ではないか。われわれに用心させるための作り事で、ありかを知っているのはあの女だけではないか。そう考えると幾つかの謎も解けてくる」

それなら簡単だが。しかし、と山本が言った。

「なぜ、ホテルなんて情報が筒抜けの場所に滞在するのでしょう。身を隠してもよさそうなものですが」

「それは無理だと思う。日本国内にはもうジュ・テジュンはどこにも隠れるところはない。それに秘密は一つを除いてないのではないか。カンビール型の核爆弾、そのありか以外に秘密にするものはない。自分に危害が及べば別の男が核のスイッチを入れる。完璧な脅しだ。我々には手出しが出来ない。その間にパク・ジョンイルは日本に多額の援助を要求でき政権は安泰というわけだ。その間、ジュ・テジュンとパク・ヨンヒルはハネムーン気分というわけですか、それも日本の国費持ちで」

2007年10月21日 (日)

永き眠りの後に#23-24

デッサン23

物音に気がついて目が覚めた。まだ夜明けまでは時間がありそうだ。辺りは暗い。隣の部屋からかすかに両親の話し声が聞こえる。言い争いをしているようだ。布団から起き出した少女は、肌寒さに震えながら声の方に耳を近づけた。

あの穏やかな父が、別人のように母をなじっている。母もいつもの明朗な母ではなかった。激しく言い返している。少女は最初、これは夢なのだと思った。しかしそれは現実だった。寒さと目の前の出来事にふるえている自分があり、間違いなくここは自分の家だった。少女には話の内容は分からなかった。従って、何が原因で両親が争っているのかも分からなかった。一つだけ分かった言葉はうらぎり、互いがそう言い合っていた。すぐドアーを開けて出ていこうかと思ったが、子どもながらもその結果がどうなるか不安だった。少女は、それまで裕福ではなかったが、慎ましい家庭で両親に囲まれて何不自由ない毎日を送ってきた。父は寡黙だったが少女には優しかった。休日にはよく親子三人で野山や遊園地に出かけた。母は、快活な女性で愛情深く、何も不足はなかった。それまで少女は、両親が言い争っているところを見たことはなかったので、今目の前で起こっていることをどう理解して良いのか分からなかった。しかし、これは間違いなく現実なのだと思った。次の瞬間、母がカミソリのような刃物を握りしめていた。父がそれを制止した。長い膠着状態の後、もみ合いながらねじ伏せられた母の首に刃物が一文字に走ったかと思った次の瞬間、おびただしい鮮血が飛び散り、辺りは血の海と化した。父が、母の喉を切ったのだ。母は苦しそうに身をよじらせもがいていたが、そのうちに動かなくなった。父は呆然として無表情に母を眺めていたが、やがて我に返り、辺りを見回しながら周りの後始末にかかった。父は泣いているようで、かなり動揺しているようだがそれでも機敏に動いていた。まるでこのような事態をかって何度も経験していたかのごとく、手際よく母の遺体をシーツで覆いはじめた。いつもは楽しい団らんの場であったその部屋は赤く染まり、まだ母の流した鮮血が辺りに飛び散っている中、父はシーツにくるまれた母を見下ろしている。少女は凍り付いたように直立して、ただ事態を見守るしかなかった。手も足も、何かに押しつけられているように動かなかった。声を出そうとしても喉は枯れてしまったかのように、ただはき出す息のかすれた音だけだった。その時、父は気配を感じ、少女の方を見た。その瞬間、全てが赤く染まり、少女の目は見てはいるが意識は何も受け付けず、耳は音を聞いてはいるが何も伝わりはしなかった。そして少女は肉体だけの、魂のないフェルト人形となった。一〇歳の少女はその瞬間から時間が止まったままだった。何が両親をこれほどの惨事に誘ったのか、10歳の少女に理解できるはずもなかったが、互いの秘密がそうさせるのではないかと思った。それもやがて深い闇に沈み、自分の周りはすべて暗闇と化し、自分自身が深い闇に落ちていくのを感じた。それは、どこまで落ちても底というものに到達しない、限りなく深い闇だった。そして闇を闇と感じる感覚も闇の中に消えていった。

緊急時の連絡先として登録した浜崎あゆみの携帯電話に連絡が入った。電話先の介護士は興奮気味に一気にまくし立てた。海田みどりさんの意識が戻りつつあります。すぐお越しください。知らせを聞いた浜崎あゆみは取るものもとりあえず、会社に連絡の後、電車に飛び乗った。海田みどりは、海田真一郎と朝子との間の娘で、十歳の時に突然意識を喪失、その海田みどりが意識を回復しだしたというのだ。何と話し始めるべきだろうか。自分をどう思うだろうか、と浜崎あゆみは不安に思った。

病室に入ると海田みどりは、いつものようにベッドに座っていた。相変わらず、焦点は真正面の壁だった。施設の介護の甲斐あって、毎日肢体が弱らないようにマッサージを受け、健康管理には気を配られているので、部外者が見れば普通の入院患者と見られるかもしれない。しかし、今まで意識がなかったのだ。

看護師が「あゆみさん」と呼びかけたが反応がない。

「おかしいですね、朝は私たちに目を向けて声を出したのですが・・・」。

「しばらく二人だけにしておいてくださいませんか」。

女性看護師はうなずいて病室を出て行った。

もし意識が回復したとして、海田みどりの心理的年齢は十歳のままなのだ。体は二十五歳の美しい女なのだが、精神的には子どもなのだ。身寄りもない彼女をどう「育て」ていくか、思案顔で見ていたら、海田みどりが浜崎あゆみを凝視していた。それに気づいてハッと我に返り、やさしくほほえんだ。相手もほほえんだような気がした。そしてその顔に一筋の涙が流れているのにも気がついた。浜崎あゆみはハンカチを取り拭こうとしたら、その手を誰かが握りしめた。驚いて手を引っ込めると、海田みどりの華奢な指先が、浜崎の手のひらを弱々しく握っていた。感動と驚きのあまり浜崎は声が出ず、ただ海田みどりの顔を見つめた。そして後彼女は、浜崎あゆみが驚愕するような話をしだした。

デッサン24

イ・ヒョングの一日は、朝5時起きから始まる。

その後、近くの広場で三〇分ゆっくりと太極拳をやる。ここ二〇年来、夏の盛りの暑い日もピョンヤンのしばれるような寒さの中にも欠かしたことがない。今日は近くの同年配の男女十数人が参加している。いい天気だ、きっと昼頃には暑くなるぞと思いながら無心に、緩やかに、体を動かしながら呼吸を整えていく。太極拳が終わるとうっすらと汗をかくが、爽快な気分だ。そして互いに挨拶を交わしながら帰宅するが、まだ朝飯の準備をするには間がある。そう、仕事で疲れて帰ってくる娘夫婦に代わって、食事の支度をするのもイ・ヒョングの仕事なのだ。きょうは、太極拳仲間のリョ・テクと少し話し込んだ。話し声は出来るだけ低く、互いに笑いながら話しているが、目は真剣だった。周りの人は、また孫の自慢話でもしているのだろうと思った。イ・ヒョングとリョ・テクの付き合いは、太極拳をはじめるはるか以前から、そう五十年以上になるか。イ・ヒョングは笑いながら、「便りが来た」と言った。その瞬間、リョ・テクの顔がこわばった。互いにうなずきながら、モヤのかかっている道を帰っていった。さあ、朝の食事の支度だ。孫たちも娘夫婦もまだ休んでいる。

イ・ヒョング家の朝は騒々しい。まず夫婦が起き出し、洗面をすませ仕事に出かける用意をする。次は、ふたりの孫たちが学校の準備に専念。鉛筆がちびれたので買ってくれとねだるが、母親はなかなか応じない。しかし、二人の孫たちには希望があるので、きょうは鉛筆には固執しなかった。学校から帰ると、チョコレートの小片とドロップを2個ずつ貰えるのだ。これが子どもたちの希望なのだ。イは孫たちに、友達にはこのことは言わないように注意した。その訳をこどもの疑問に答えるかのようにして、もし話したらみんなに分けてやらなければならないだろう。それでいいかな・・・、これで十分だった。孫たちは、大切なチョコレートとドロップの分け前が減ることは望んでいなかったので、ジイの言うことに素直に従った。そのあと一緒になって丸いテーブルを囲み、イ・ヒョングの作った質素な朝の食事をいただくのが慣わしだ。

ピョンヤンはまだ配給があるだけでも幸せだ。地方の都市では配給がとどこおって、餓死者が出ているという噂だ。イ・ヒョングとリョ・テクはめずらしく長話をした。

「東の同志が実行を促してきた。今度は協力者がいる。先日、その男と会った。彼は強力な武器を持ち込んだそうだ。それを使えば、たぶんピョンヤンは跡形もなくなるそうだ」

「核兵器か、かなりの大きさだろう、それをどうやって持ち込んだのだ」

「それは分からない。ただ彼の説明によると、カンビールのサイズだそうだ。我らには縁がないので分からないだろうが、直径が12センチ長さが18センチだそうだ」

「それでどうするんだ」

「まだ分からない。その男も司令を待っている。今回は共同で仕事をすることになる」

「相手方はどちらさんで」

「たぶんアメリカだな」

「日本とアメリカが手を結んだ訳か。しかし、それは我々との約束違反ではないか」

「確かに。しかしこれには深い理由があるらしい。その男も全体の理由を知らない。双方の情報をつなぎ合わせるしかないだろう」

「危険すぎはしないか」

「やってみる価値はある。しかしこれは約束外の仕事なので、参加するかどうかはあんたの判断に任す。自由に決めてくれ」

「我らが将軍様を、確実にお休みいただくことが出来るのだろうか」

「わたしはそう信じている」

「わかった、協力しよう。その前に、その男に会わせてくれ」

「いいだろう。明日の午後いつものところに来てくれ」

帰って行くリョ・テクの後ろ姿を見ながら、わしらも歳をとったものだとイ・ヒョングは思った。リョ・テクの歩き方は正に老人のそれで、傍目にも危うさが伺われた。きっとこの俺も、他人が見たらそうだろう。体力も落ちた。この機会を逃したら、我々にはパク・ジョンイル暗殺計画は永遠に不可能になるだろう。何としても、この機会にあの男と事を起こしたい。

イ・ヒョングの五〇年余は、自国朝鮮人民共和国に幻滅を感じ続けた日々だった。朝鮮半島では一九四五年、太平洋戦争での日本無条件降伏後、ソ連と中国に後押しされた「朝鮮臨時人民委員会」を結成した朴日成と、アメリカに後押しされた「南朝鮮過度政府」を樹立した梨承晩との代理戦争が勃発した。初期のころは、国連を中心とした論争や小競り合いが主だったが一九五〇年北朝鮮軍約一〇万が三八度線を突破、それを迎え撃つ国連軍と言ってもアメリカ中心の軍隊が壮絶な戦いを繰り広げた。当初から共産軍有利で、一時はソウルも陥落し最後の砦落東江円まで追いつめられたが、連合軍は最高司令官ダグラス・マッカーサーの決死の反撃によりソウルを奪還。その勢いを借りて三八度線を越えて北へ進撃した。しかしこの時点で中国正規軍が参戦するに及んで、双方が膠着状態になり、三八度線を挟んで一進一退となった。結局38度線がその後の南北の境界線となった。実は、この時の戦闘でイ・ヒョングとリョ・テクは互いに敵同士として対面したのだった。リョ・テクは北、イ・ヒョングは南だった。一九五〇年の板門店を挟んだ激しい戦いにリョ・テクとイ・ヒョングは至近距離から歩兵銃で撃ち合った。リョ・テクが放った銃弾がイ・ヒョングの右足の太ももを貫きイ・ヒョングはこれが最後と覚悟した。歩兵銃を構えたリョ・テクが狙いを定めてイ・ヒョングに近づいてくる。互いが互いの顔を見合ってひとことも声を出さなかった。しばらく膠着状態が続いた後、何を思ったのかリョ・テクはイ・ヒョングの止血をして肩に担ぎ岩陰に隠れた。戦場で敵を助け匿えば銃殺刑になることはよく承知していてなぜリョ・テクは敵だったイ・ヒョングを助けたのか、あの頃を振り返ってリョ・テクは今も分からないという。とにかくリョ・テクとイ・ヒョングとはその頃からの同志なのだ。イ・ヒョングは北の捕虜となりその後この国に帰化した。この二人が会うごとに語り合うのが、

俺たちは一体何のために殺し合いまでして国のために戦ったんだ。こんな監獄のような国を造るためではなかったはずだ。社会主義国家がいいのか自由主義国家がいいのかそんな難しいことは俺たちには分からないが、国民が餓死したり理由もなく拉致され強制労働や粛正されるような国家こそ革命されるべきだ。そのための革命であったはずの共産党は北朝鮮でも一党独裁を続け、この党に疑問でも呈しようものなら、一族郎党強制収容所での重労働と思想教育が待っている。この国はどこか狂っている。党は上から下まで腐敗にまみれ何をするにも賄賂は欠かせない。この腐敗は末端の役人や工場管理者に至るまで蝕んでいる。この国はどうしようもないのだ。この国を改革するには、少なくとも今の領主を亡き者にしなくてはならない。これが長い間かけて培われたイ・ヒョングとリョ・テクの信念なのだ。朴日成時代にも機会をうかがったが目的は果たせなかった。その息子パク・ジョンイルには何としても果たしたい。トップひとりを葬り去ったら北朝鮮全体が変わるという程問題は簡単ではないことはふたりも理解しているが、この朝鮮戦争を理想の国を造るために戦ったふたりにとって、その結果としてこんな牢獄のような国を作った指導者を赦すわけにはいかないのだ。たといこの身が滅んでも。ただ、自分たちの力だけでは達成不可能だと思っていた矢先に、もうかなり前になるが、確か一九六六年四月だったか、ある筋から誘いがあった。不思議な伝で日本在所の朝鮮総連の幹部からおもしろい話を持ちかけられた。どうやって我々の考えを知ったのかは今も謎だが、その日本朝鮮総連幹部が具体的に協力を求めてきた。最初は罠だと思い話に乗らなかったが、確かな証拠を見せられた。その人物は、朝鮮総連の内部に放された日本側の工作員だった。この人物は定期的に北朝鮮国内にも行き来が出来る高位の立場で、表面上の訪朝理由の下に隠された目的は北朝鮮国内に情報網を作ることにあった。イ・ヒョングもリョ・テクも用心して2年間は取り合わなかったが、来朝のたびに接触してくるのでこちらからテストをすることにした。それはイ・ヒョングとリョ・テクが書いた朴日成を褒め称えることばを日本の新聞に載せること、という要求だった。何週間か後に日本朝鮮総連のある人物から小さな菓子類が届いたが、それを包んである新聞紙にイ・ヒョングとリョ・テクの文章が掲載されていた。それ以来関係は続いている。先方は40年に渡る関係の中、今までに一回だけ協力依頼があったがそれ以外何も要求してこない。ただ1年に1回小さな包みが送られてくるが、互いの無事を確認する程度の内容で中身は子どもの菓子類だった。

イ・ヒョングは朝鮮戦争が終わったその年の暮れに、共に戦った婦人戦闘員のリュ・シュンシと結婚した。結婚式には党の地区委員数名とリョ・テクが証人として参加した。質素な式ではあったが若い二人は幸せだった。その後リュ・ションシとの間に娘が生まれ今はその娘夫婦とその孫たちと暮らしている。おじいちゃんがこんな恐ろしいことを計画していようとは、孫たちも娘夫婦も考えもつかないことだろう。リョ・テクも同じような経路を通りいまは孫二人に囲まれているが、そう長くない残された時間に何とか将軍様に永眠してもらうことについてはイ・ヒョングに勝るとも劣らない願望があった。例えこの命と引き替えにしても。

次の日も快晴だった。老人が三人川縁に仲良く並んで話込んでいる。傍目には釣りの話か孫の話にふけっているように思うだろう。確かに孫の話はしたが、今日はそれが目的ではない。彼らは休眠して四十年以上ただひたすらに善良な北の人民になりすまして待っていた。彼らの一生の内にひょっとして何の指令もないかもしれない。しかし、指令が来て彼らが動くときには「東の国家」は極度の危機に陥っているはずだ。イ・ヒョングの長い休眠期間で「東の同志」から指令が来たのは一九八三年一〇月一度だけだった。それは、ミヤンマー(当時ビルマ)訪問中の韓国大統領全斗煥暗殺事件があった時だ。結局全斗煥大統領は難を逃れたが大統領夫人が犠牲になった。当時、北朝鮮は高齢の朴日成主席が領主だった。当時まだ序列外だったパク・ジョンイルは、それでも領主の息子として親の七光りでかなりの権限をもっていたが、無謀にも南朝鮮(韓国)大統領全斗煥の暗殺計画を取り巻きとともに実行したのだ。それがいわゆる「ラングーン事件」である。後で知った朴日成は激怒し、息子を唆した取り巻き連中をすべて処刑したと言われている。進退極まった朴日成は何としてもこの事件をもみ消すか他国になすりつけなければならなかった。このままでは、下手すると38度線から韓国軍とアメリカ軍が攻めてくるかもしれない。そうならなかったとしても彼の指導力に陰りが見えたとして、軍部から批判が出てそれが党にも波及すれば彼は苦しい立場に立たされる。朴日成にとって、これはアメリカ軍の侵攻よりも怖いことである。そうなれば息子のパク・ジョンイルを処罰したくらいでは治まらないかもしれない。そこで苦し紛れに朴日成はひとつの奇策を練った。当時日本と韓国の間は漁業問題や貿易問題で軋轢があり、きな臭い状況にあった。朴日成はそれを利用して、日本の工作員の仕業に見せかけるために偽装したのだ。実際、工作員をラングーンへ送り込み、これみよがしに日本の臭いをまき散らした。日本嫌いの韓国人たちの一部には、日本を疑う者も出始めたが、最後にはその線はきえてしまった。結果としては、韓国軍とアメリカ軍も北には侵攻してこなかったし、世界中に北朝鮮の危険性と野蛮さを宣伝するだけですんだ。しかし、当時濡れ衣を着せられかねない日本は焦った。韓国の中にはまともに受け取る者もいて早急な解決が必要だった。イ・ヒョングに指令が来たのはその時だった。イは、ピョンヤンに大使館を置いている自由主義国スエーデンの大使館員に内部文書を握らせた。彼は本国経由で世界中のマスコミに暴露し、北朝鮮の関与は決定的となり、日本も胸をなで下ろした。しかしこの件に対しては、北朝鮮は一切韓国に対して謝罪していない。なぜなら、謝罪即ち朴日成の敗北になることが分かっていたからだ。そして敗北は北朝鮮では死を意味していた。

一年に一回安否のために「東の同志」から連絡がくる。日本の北朝鮮関係者を通じて、小さな食料と共にその包み紙にメモがあり、そのお返しとして何気ない返礼の手紙を出す。それを毎年繰り返し、互いがつながっていることを確認するのだ。

「やっぱり舶来ものはうまいな」、と盛んに煙を噴かしながら、ここのところたばこの配給が止まっていたのでよけいにそう感じたのだろう。イ・ヒョングが話を促した。

「アメリカと日本はパク・ジョンイルの核で脅迫されている」

「あの男、まだ懲りないらしいな」

「アメリカの大都市と日本の東京だ。核が爆発しなくても、その噂が広まるだけで両国は決定的なダメージを受ける。それは政治・経済の全域にわたり、世界中に波及するだろう。何としてもそれを阻止したい、というのが日本とアメリカが今回共同で作戦を実行する理由だ。既に、パク・ジョンイルも国内に核が持ち込まれた事を知っている。これはアメリカがわざとリークしたんだ」

「というと」

「つまり、パク・ジョンイルが例え寝言ででも核の話をすれば、こちらもばらすぞという無言の圧力だ」

「なるほど、これで双方を手詰まりの状態にしたわけか」

「その間に本国ではしらみつぶしで探しているよ」

「で、あんたが持ち込んだというその核はどこにあるんだ」

「それはお互いに知らない方がいい。もしものことがあるからな」

「確かに。知らない方がいい」

しかし、とリョ・テクが言った。

「もし、我らが将軍様が、核持ち込みを疑ったらどうなるのだ」

「その点も考慮した。あんた方も最近、ロシアの戦術核が二個盗まれたという噂は知っているだろう。その内の一個が北朝鮮の手に落ちもう一個がアメリカに落ちたと言うことさ。ロシアもアメリカももちろん北朝鮮も否定しているが、互いでは事実だと言うことは重々分かっている」

「なるほど。用意周到ってやつか」

「それで、アメリカの最終指令は何だ・・・」

「パク・ジョンイルの抹殺だ。これはアメリカ大統領の了解事項だ。但し、アメリカの都市と東京のどこかで司令を待っている核を撤去してからだ。かなり追いつめている、と聞いている。後は時間の問題だ」

「アメリカの忍耐もこれまで、というわけか。それで、休眠中のわしらの協力がいるというわけか。パク・ジョンイルは用心深い、二日と同じ宿舎には滞在しない。必要最低限しか大衆の面前には現れない。軍部や党の要人と会談するときにも、かならず身体検査をさせる。常に銃の引き金に指をかけた護衛があたりを見渡している。それでも事故は起きる。以前、守る側の護衛がパク・ジョンイルに発砲した。弾は逸れて秘書官の胸を貫通した。発砲動機は、その若い護衛士官の許嫁をパク・ジョンイルが有無を言わさず権力を使って手込めにしたからという噂だ。当然本人は拷問の後に銃殺刑。家族も食糧事情の悪い収容所生活を強いられる事になった。それ以来、パク・ジョンイルは護衛も毎日人員を入れ替え互いに見張らせることにした。暗殺と無関係な人間でも、あやまって不審な動きと見られていきなり発砲されることもある。それで命を落とした者は多い。あんたの国ではこれは事故だが、我々の国では事故にはならない。誤って殺された男は不運にも、何かほじくり出されてその代償としての罪名がつく。だから高官も奉仕のために呼ばれている女たちでも、彼と同室のときには気が抜けないのだ」

「しかし、手が無いわけでもない、そうだろう。それを聞きたいのだ。君たちに協力してもらいたいのは、パク・ジョンイルがどこにいるかの情報だ」

「そのあと、どうするんだ」

「わたしが処理する」

「・・・見たところ、あんたもわしらとそう歳もちがいはなさそうだが」

「あんた方の言うとおりだ。わたしは確かに工作員としては歳を取りすぎている。しかし、いいこともある。長い間経験は積んできた。それに、国籍も、身内もいない。例え失敗して殺されても何も残らない。カイダ・シンイチロウ、たぶん私が死ねばこの名前で呼ばれるだろうが、日本人ではないしアメリカ人でもない。あんた方と同じく、日本をねぐらにした休眠だよ」

「何でこの仕事を開業したんだ。カネのためか」

「カネではない。カネがあったとしても日陰者には使えない。国家のためでもない。だから納得できない仕事はしない」

「では、何のためだ」

「あんた方なら分かってくれると思うが、自分が生きている証しのためだ」

「つまり、自分のためという訳か。・・・もっと奥に何かあると思うが、今は聞くまい」

「あんた方こそは何のために危険を冒すのだ。カネも使えない国の中で」

「最初に言っておくが、わしらはアメリカや日本の味方ではない。この北朝鮮の体制、なかんずくパク・ジョンイルを倒したいだけだ。そのために、日本やアメリカと協力するのだ。最初は南朝鮮(韓国)と手を組もうとしたが、どの政権も弱腰で信用できなかった。わたしらは、アメリカや日本からカネは一銭も貰っていないし貰う気もない。ただ、互いの利益のために協力できる素地がある、ということだ。そしてお互いはいままで長い間約束を守ってきた。このたばこがアメリカの国費で賄われているのであれば、これはわたしの借りとしておいてくれ」

少しずつうち解けながら3人は具体的な計画の作成に移った。しばらくして、カイダ・シンイチロウが尋ねた。

「これが発覚した場合、わたしやあんた方はいいとして、家族はどうなるんだ、無関係では済まないだろう」

「もうそのことは十分考えて手は打ってある」

「どういう手だ」

「娘夫婦に密告させるんだ。そのための証拠品も用意してある。・・・今度でわたしらも最後だと決めている。だからいずれにしても密告させるつもりだ。そのための最後の説得は残っているがな。とにかく、娘夫婦は私を当局に密告しなければ生きていけないのだ。だから親を売ってくれと言うつもりだ。それが孫たちの将来にも関わるので、イヤとは言わないはずだ」

「わしの場合も同じだ」、とリョ・テクが話を続けた。それにと一呼吸置いて、

「わたしの息子夫婦は養子なんだ。小さいときに孤児を拾って育てた。妻も私も実の息子同様に可愛がった。彼らのためにももっと住みよい国にしたいんだ」

「なるほど。長い間、父親が他国の工作員だったとは知りませんでした。つい昨日怪しい物を見つけたので当局に届け出ました。父親は昨晩から帰宅していません。何処へ出かけたのか分かりません、と言いう訳か」

「要するに、わしらの仕事は、パク・ジョンイルが何時の日に、どこの隠れ家に滞在するのか、といことを見つけることだな」

「そういうことだ。それも、少なくとも2日前にそれを知りたい」

「かなり、難題だなこれは。パク・ジョンイルはその日にならないと今晩何処に泊まるのかについて明らかにしない。とにかくやってみよう」

やっと三人の“孫の自慢話”は終わったようだ。その後、リョ・テクはイ・ヒョングにひとつ可能性がありそうだと言った。海田真一郎は二人と別れてホテルに帰った。留守の間に、彼の所持品はマッチ箱の中身まで、ある筋の人間が事細かに調べたらしい形跡があった。しかしそれは全て予定に入っていたので不審な物は何もなかったはずだ。この国では、工場建設という目的のために訪朝している民間人にもチェックは欠かさないと言うことか。

2007年10月20日 (土)

永き眠りの後に#20-22

デッサン20

「合資会社朝・日友好貿易」に本国より「注文」が舞い込んだのは、ジュ・デジュンが新潟に出向きバン・ユンジュン号内である高官に面会し帰宅後のことだった。ジュ・デジュンは船内で高官から一通の封筒を渡された。その書面は調査命令書の形をとっているが、暗号であることは間違いなかった。表面上は、最近の日本国内の世情をいくつかの側面から報告せよとか、今後の日本経済の動向について本国との関係で調査せよ、というわざわざルートを通して調査依頼するほどのものではない事は一目瞭然だった。ジュ・デジュンは社員全員を早めに帰宅させ、ひとりになったことを確認してから、本国から届いたファックスの文面と高官から渡された手紙を持って「合資会社朝・日友好貿易」唯一の応接室に入った。この部屋だけは電波傍聴や盗聴・盗撮は不可能なはずだった。

新宿警察署の山本と景山は、斜め向かいの喫茶店の2偕に入り浸りながら様子を覗っていたが、社員が全員帰宅した後ジュ・デジュン本人がまだ残っていることを確認して東条に連絡を取り、探し物は所持していないようですと報告した。ただ、何らかの連絡は入っているはず、というのが山本たちの考えだった。実は以前から、「合資会社朝・日友好貿易」にかかってくる電話やファックスおよび手紙の一通に至るまで、東条らの手で盗聴や開封されていたのだ。だから表向きの文面や会話は全部記録されてあるが、別に怪しいものはなかった。

「核爆弾は、もう既にどこかに設置されたのだろうか。しかし、爆発させるにはタイマーをオンにしなければならない。あの女がスイッチ係なのか。ということになれば、あの女がありかを知っているということになりますか」

「いや、そうとは限らないだろう。こういう場合、設置したものとスイッチ係は別の人間にした方が安全度は高い。たぶんあの女は運び屋かスイッチ係のいずれかだろう」

ジュ・デジュンは、特殊なラップトップを使って暗号を解読して、そこに現れた本国からのメッセージに背筋が寒くなった。しかしこの指令は、間違いなく祖国の指導者にしてジュ・デジュンが尊敬してやまないパク・ジョンイル総書記直々の命令であった。この使命は命を賭しても成し遂げなければならない。その時には、自分の命は祖国のために惜しくはなかった。が、何かしっくりいかないものがあった。もし自分が、あの悪魔の兵器を作動されれば、自分も共に焼き殺されるだろう。それはいい。覚悟は出来ている。しかし、いかにわが国の敵対国ではあるにしても、この日本市民が何十万人も一度に焼き殺されるのには恐れがあった。何も知らない無垢な子どもや一般市民が。これは正しいことだろうか。ジュ・デジュンはしばらく考えを巡らしていたが最後に、自分なりに決断した。これは祖国の高度な政治判断だ。自分は、ただ命令を実行すればよいのだ。こういう大きな命令を与えられたときに、妙に個人的な感情やヒューマニズムに流されて重大なミスを犯し、取り返しがつかない羽目になることは、厳に慎まなければならない。これには祖国の運命がかかっているのだ。そしてわたしにその使命を託されているのだ。何があってもこの使命は果たさなければならない。命令書にあったように、運悪く核のスイッチをオンにする状況になったとしても。

ジュ・デジュンは解読した文書をシュレッダーにかけ、ラップトップを閉じた。そのとき、ジュ・デジュンは気がつかなかったが、ラップトップの電源コードを通して、配線から微弱な信号が外部に流れ出していた。その微弱な信号は、すぐ傍の電柱で作業していた電力会社の作業員のモニターに記録された。そして作業が終わった作業員は、近くに待たせてあった目立たないワゴン車の中に消えた。

デッサン21

セルゲイ・バッハービッチと篠崎百合子はいらだっていた。横浜で、日高由美子が持ち込んだと思われる缶ビール1個は、アメリカ大使館の一等書記官で軍事武官のジョン・ワイルダーの手に渡ったということは確実になり、アメリカがそれを何に使うのかは不明にしても、アメリカは北の将軍さまよりも理性はありそうな気がした。つまり、その核爆弾で、どこかの無辜の民を殺傷するなどという後先考えないようなことはすまい。つまりこれで動機はどうであれ、一個の核はほぼ安全な場所に落ち着いたと考えていい。もうひとつ、ナホトカから根室経由で国内に持ち込まれた核爆弾の行方はどこなのか。既に、都内のどこかに隠されている可能性が高い。パク・ジョンイルは、それを元手に、日本政府をゆすっているのだ。日本政府は、表向きは人道的な援助と位置づけた発表をしているが、パク・ジョンイルへの貢物に変わりはない。そして彼は、都合のいいときに、また2回目の援助を求めてくるに違いない。そこまでくると、日本国民もおかしいことに気づくはずだ。既に、新聞記者の数名がこれに疑問を持って調べだした。手は打ったがいつまでも隠しおうせることはできないだろう。

篠崎百合子は、新聞記者の一人を口封じする指令を出すに当たって、この立場にあえてなったことを後悔した。権力への上昇志向の強い篠崎百合子は、今まで何人もの人間を策謀を尽くして蹴落としこの地位を掴んだ。そのために結婚も諦め、ただ権力の中枢によじ登ることのみを目的にした人生であったが、その結果が、罪もない日本の若者を国家存亡の危機とはいいながら、口封じのために殺害する命令を出すはめになったのだ。篠崎百合子は東条を通して、北海道新聞の檜山に相談を持ち込んだ。篠崎百合子が危惧していたように、檜山は、根室港を経由して、ロシア製の戦術核が日本国内に持ち込まれたらしいという確証を掴んでいたのだ。それは、北海道新聞の根室支局の同僚から、望遠レンズを通して映し出されたある場面の写真が渡されていたからだ。その写真には、ナホトカ港所属の第24オビ号と共に、ワーニャ・スタコビッチ船長と深々と帽子をかぶった女との取引場面が写っていた。たまたま道新の写真班の黒崎は、地方版に載せるために、ロシアのタラバガニ漁について取材するために撮った写真だったが、不審に思って檜山に送って寄越したものだった。その後の、さまざまな噂と関連づけた檜山は、この写真は正に、もう一つの核の取引現場を写した写真ではないかと推測したのだ。日時を確認すると、ワーニャ船長が事故で死亡する前後の時間だった。それで、その時に取った写真を全部取り寄せてルーペでかざして見た結果、帽子を深々とかぶっていた女がもう一枚にも写っていた。檜山にもこの女が誰なのか分からなかったが、美しい女だと思った。写真を撮った写真班の黒崎も、もしこの女が普通の女だったら、この写真は撮らなかっただろうと自嘲を込めていったそうである。

東条と檜山の会見は、内閣調査室が捜査に使う特別な場所で開かれた。この建物の外見は、どこにでもある住宅のようであるが、家具調度品の類は、ソファーと机とそれに分厚いカーテンのみ。表札の類も一切無く、周りの森に囲まれた一軒家といったところだ。東京のど真ん中にこんな閑静なところがあるとは、檜山も感心したが少々寒気を覚えた。

簡単に自己紹介をすませた東条は単刀直入に切り出した。

「檜山さん。あなたは日本の存亡に関わる情報を所持していますね」

最初とぼけていた檜山も、東条が自分が知っているネタのことを知っていることに少々驚いたが、冷静を装って、

「一体何の用でこんな閑静なところに連れてきたんです」、と応酬した。

「用件は分かっているでしょう。あなたが知っていることを、新聞に書かないでいただきたい。あなたが知っていることの一部でも新聞に書かれたら、日本国内は、特に東京はひっくり返るほどの騒ぎになる。それはあなたにも分かっていただけると思うが。」

「では聞きますが、あなたたち国民を守る立場の人間は、このかかる事態に対してとう対処するつもりですか。もしかして、既に核爆弾は東京のどこかに設置されて、時を刻んでいるのではありませんか。それならなぜ都民に避難を勧告しないんですか」

「考えてもみてください。避難と言っても千人や一万人ならどうにでも出来ます。しかし千二百万人をどうやって避難させますか。それは早急にもうひとつ国を造れと言うのに等しいのですよ。第一、実効性がない。私たちの考えは、何としても核を探し出して撤去する、それしかないと思うのです。そのためにも是非あなたの協力が必要です。あなたは疑いの根拠になった写真をもっておられる。それを私たちに提供していただきたい」

「断る。これはわたしの取材に対する証拠品ですから提供できません。それにわたしは、読売の矢崎氏朝日の大家氏の三人でこの件を調査することにしていますので、わたしの一存では新聞掲載の件も含めて協力は出来ない」

それに、と檜山は継ぎ足した。

「わたしは新聞記者です。新聞記者は読者が知りたいことを知らせるのが使命です」

「そのために大混乱が起こってもですか」

「では尋ねますが、あなたたちが核爆弾の処理に失敗したら、だれが責任を取るのですか。出来るだけのことはしたのですが・・・、といってお茶を濁すのですか。その時に、多くの国民から、なぜもっと早くこのことを知らせなかったのかという非難や怒りが、日本国政府ばかりかわれわれ報道に関わる者にもくることになります」

押し問答が小一時間続き、東条は説得が難しいことを悟った。東条が最後に、残念ですがあなたを拘束します、と言った時には左右をがっちりした男に掴まれ、檜山は身動きできない状態になった。顔全体が白い布に覆われ消毒液の臭いがしたかと思ったら、意識が薄れて目の前が暗くなった。そのあとどれくらい経ったのだろうか、檜山はベッドだけの狭い部屋で目覚めた。内側からは戸っ手がないスチールドアーが唯一の出入り口らしい。それもピッタリ閉ざされている。時計もはずされ、時間は何時だか分からない。所持品を確認すると、携帯電話や記者証をはじめ何もなかった。それにしてもこの部屋は、音のひとつも聞こえないまるで無音室のようだ。桧山は、所在なしに昨日のことを反復して考えていた。この「昨日」ということも、本当に昨日なのか、もう3日経ったのか、まだ今日なのかも判別できない。あの東条が言うように、確かに、この件を、何の準備もなしに公表すれば、日本中が大混乱になることは自分にも分かる。しかし、もしも隠されている核爆弾の処理を失敗したら、何十万という都民が核の熱で焼かれ、その何倍もの人間が核の後遺症で苦しみ、経済的にも甚大な被害が出るだろう。これは、事が終わって責任が誰にあるのかと言って、誰かに背負いきれないほどの重い責任を負わせて解決する問題ではないだろう。誰かが責任を取ったとしても、死んでいった人たちには何の慰めにもなりはしない。そのくらいは政府にも分かるはずだが。他に何か公表できない理由があるのか・・・。その時点で檜山には、アメリカもパク・ジョンイルから核爆弾で脅しを食っていることを知る由もなかった。

その頃檜山のアパートはガサ入れされ、本棚の間から礼の写真が発見された。東条はその写真の中に、見覚えのある女の顔を見つけた。赤い登山帽に深く顔を埋めているジュ・デジュンだった。

デッサン22

セルゲイは、本国からその後の指令もないまま時間をもてあまして、東京の街に出た。地下鉄丸の内線に乗り新宿東口に出た彼は、人の多さに目眩がした。ちょうど土曜日の昼下がり、若者を中心に、家族連れや老人にいたる大勢の日本人が遊歩道を闊歩している。自分の前を行き交う人々はくったくのない笑顔で互いに話し合い、楽しそうだ。これが「市民」というものなのだ。ロシアにはまだここまでの自由さはないなとセルゲイは思い、この都市のどこかでその機会を待っている恐ろしい核爆弾を何とか阻止しようと心に誓った。ふと後ろを振りむくと、土曜の午後に似つかわしくないスーツを着た男たちが、何食わぬ顔をして新聞記事に見入っていた。たぶん篠崎百合子が護衛のために付けてよこした者だろう。自分にもしものことがあったら、爆弾を発見したときにパニックになることを理解しているらしい。あの女、ロシアにも珍しいほどの気骨がある。そう思いながら、ふと前方を見渡したらそ、こにも二人のスーツ姿があった。四方から自分を見張っているらしい。それにしてもFSBの偵察衛星からも、信号音をキャッチしたという連絡は入っていない。まったくの手詰まり状態になった。

その時セルゲイの携帯電話に篠崎百合子から連絡が入った。至急内閣調査室まで来てほしいとの事だった。霞ヶ関までどういったらよいものか思案していたところ、どこからともなく車が近づき、ドアーが開いた。先ほどの男が乗っていた。新宿ランプから首都高速に乗り桜田門まで、あっという間に着いてしまった。特別車で、外の騒音は一切聞こえず、何で他の車がよけているのかが分からなかったが、車を降りて分かった。赤いランプが点灯していてたぶんサイレンもなっていたことだろう。他の車に気の毒だったが悪い気持ちはしなかった。

内閣調査室の特別会議室には、篠崎百合子と内閣調査室の数人の男が待っていた。

これはジュ・デジュンのラップトップからもれ出た情報を当方で処理した結果ですが、と言いながら篠崎が手渡したA4にはハングル文字の羅列があった。その下には英文の翻訳らしい文章があり、これならセルゲイも理解できた。文面には一行、

「準備は了解した。所定の位置にて定時の連絡を待て。有限会社朝日友好会貿易を閉鎖せよ」。

「ジュ・デジュンはどこへ?」 

「大丈夫、二人の刑事が張り付いています。彼女は高輪のプリンスホテルに、観光客として滞在しています。たぶん、近くに「所定の位置」があるのでしょう。きょう午前中は、天王寺アイルから港を遊覧する観光船に乗って、東京湾を1周したそうです。その後新宿を巡り歩き、夕方にホテルへ。何も不審な点は見受けられなかったと報告を受けています。もちろん彼女の電話から封書まで、すべて目を通しています。彼女の行き先には、アベックを装った男女の特殊部隊の警官と自衛官が4組付き添っています」

「ということは、ジュ・テジュンは缶ビールが隠されてある場所は知らない。いざという時に、本国からの指令で場所が知らされる。そこでタイマーを回し逃走する」

「缶ビールを隠した人間は、既に国外に出て北朝鮮へ帰り、パク・ジョンイルに報告し終わったはずです。その結果がこの文面と理解できるでしょう。では、この段階でジュ・デジュンを殺害するというのはどうでしょう」

「それは意味がありませんね。第二のジュ・デジュンを送り込み、いきなりタイマーオンということになり兼ねません。それにあの将軍さま、何をしでかすか分かったものではないですからね。敵の動きを見たほうがいいでしょう」

アメリカのジュリア・ジョーンズ大統領から大山一郎首相へ、直接電話があった。夜半にもかかわらず、礼を失する詫びもそこそこに問題を切り出した。大山一郎首相は、話の内容に仰天し、この時点で日本の状況を大統領に打ち明けたものかどうか迷った。実は日本もゆすられていると言うことを。それをやっとのことで思い留まった大山首相は、日本に出来ることは何かと問うた。それに対してジョーンズ大統領は、まず、すみやかに在京のアメリカ大使館の武官ヒュー・オブライエンと大使のパット・ジョンソンに会ってくれるようにとのことだった。首相は迷った。日本の問題もオープンにすべきかどうか。実はその時点で、アメリカは日本の状況を掴んでいた。アメリカの情報網は、日本の情報網とは格段の違いで、知ろうと思えば首相の電話の中味から、どこで愛人と骨休めしているのか、さらには首相のブリーフケースの中身までも知ることが出来るのだ。従って、この時点で大統領が知りたかったのは、日本はアメリカと手を組んで、パク・ジョンイルと戦うかどうかということだった。日本は試されたのだ。日本の首相は、アメリカの大統領ほど強力な権限を与えられている訳ではない。民自党の、派閥の力関係のバランスの上に乗っているのだ。従って判断のミスが命取りになることを常に恐れている。しかし、今の恐れは、首相の地位を失うことの恐れではなかった。権謀作術をもってライバルを蹴落として今の地位を手にした彼にしても、もし、自分の決断ミスにより、国民に甚大な被害を出した場合の、人間としての負いきれない責任に対して、彼は恐れおののいているのだった。それに大山一郎は、心底では、アメリカを信用していなかった。アメリカが核で脅されている状況の中で、安全保障条約の規定に従って、日本を支援してくれるのかについては、なおさらのこと大山一郎は否定的な考えだった。そして日本が、核でアメリカ同様パク・ジョンイルに脅されていることをアメリカが知っていることを、この時点で大山一郎は知らなかった。今の時点では、日本だけで対処すべきだ、これが大山の信念であった。しかし同盟国のアメリカが、協力要請を言ってきたことには対処しなければならない。大山一郎は、内閣官房副長官篠崎百合子を呼んだ。

相談の結果、篠崎百合子と東条がひとまずアメリカ大使館へ、武官のヒュー・オブライエンを尋ねた。

いかにも軍人らしい厳つい体格にGIカットのオブライエンとは、篠崎は初対面だった。一歩下がって東条に交渉をゆだねた篠崎は、ジョンソン大使にお悔やみを述べた。それに対してジョンソン大使は、日本にもお悔やみ申し上げると応じた。篠崎百合子は、背中に冷や汗が走るのを感じた。アメリカは知っていたのだ。日本も、パク・ジョンイルに、核で脅されているのを知っていたのだ。この期に及んで、ジタバタしてもしようがないと思った篠崎は、大山首相に電話を入れて事情を伝えた。電話の先で、大山一郎がため息をついているのが聞こえた。しばらくの後、すべてあなたに任せるという言葉が返ってきた。この時点で、篠崎百合子に、アメリカとの交渉権が、首相より譲り渡されたのだ。こういう重大な仕事をやりたくて政治の道に進んだはずの篠崎ではあったが、いざ何十万もの人命を預かる交渉の当事者になった今、恐れと慄きが体を硬直させた。いつもの自分とは違う自分を発見し、しばらく夜更けの町並みに視線を移し、もう最善を尽くすのみだと腹をくくった。

篠崎百合子は父親の感触を知らない。母が幾度となく聞かせた父親の印象は、小学校の教師をしていたが病弱でよく床に伏していて、それでも親子三人幸せだった、というものだった。父は篠崎が一歳の誕生日を過ぎた頃結核でなくなった。以後、母ひとり子一人で、自分のことはで自分を守らなければならなかったせいか、篠崎百合子は何事にも負けん気で挑んだ。勉強も人一倍努力し、大学時代国費留学に選ばれてアメリカに二年ほど滞在し、ハーバードでアメリカ現代史を専攻した。そんな篠崎は母の誇りであり、母の喜びのためにもますます彼女は努力した。

アメリカ人が、どういう思考過程を通して物事を決断するのか、多民族国家での意思疎通の課程を、特に宗教倫理と外交交渉史をキーワードに研究した。それは篠崎が政治の世界に首を突っ込んだ時に大いに役に立っことになった。なぜなら、日本外交の大筋は、アメリカとどう向き合ってゆくのかという問題につきるのだ。その核になるのが日米安全保障条約なるものだが、対アジア外交にしても、世界的な経済外交にしても、まずアメリカがどう動くかが日本の政策決定を左右してきた。従って、政治外交上のアメリカのものの考え方を知る上からも、篠崎百合子のキャリアは重宝された。彼女はその流れに沿って、女性としては最高の地位に上り詰めた。だから、ここはきっちりと取り仕切らなければならない。彼女によると、 彼らアメリカ人がいちばん嫌うのは、偽証である。約束を違うことがいちばん卑劣なこととして蔑まれてきた。立場の違いや意見の違いから袂を分かつのはライバルとして一目置かれるが、議論の過程で権謀作術を使って相手を貶めること、つまりフェアーでないことが問題なのだ。それは、宗教国家アメリカのユダヤ・キリスト教の契約理念に根をおいている。旧約聖書に書かれたシナイ山でのモーセを仲介とした神と人間との契約において、神は、その契約を破った人類をことごとく死をもって償わせている。つまり、一度双方が誓った約束を破ることは、死を意味するのだ。それはシナイの契約より三千年を経過した今も、子孫たちの血の中に脈々と流れている思想なのだ。太平洋戦争の端緒を開いた真珠湾攻撃を、なぜアメリカが今もって闇討ちした汚いジャップといい、広島や長崎の原爆投下を報復理由と結びつけるのか、宣戦布告なき攻撃が、アメリカの最も敏感な心の琴線に悪く触れたのだ。

篠崎百合子は、ジョンソン大使とヒュー・オブライエンに向かった。日本は、この時点で現状認識を明確に伝える必要がある。アメリカと同様、ご存知のように日本もパク・ジョンイルに核で脅迫されている、ということを。続いて、日本側はパク・ジョンイルの日本に対する要求を詳細に明らかにした。アメリカも状況を説明し、行き詰まり状態にあることを伝えた。そして今回アメリカが日本に近づいた理由を明らかにした。それは極秘であった日本の北朝鮮ルートを使わせて欲しいと言うことだった。これは内閣総理大臣が、代代引き継いできた休眠工作員で、もちろん北朝鮮人だが、既にもう七〇歳は超えているだろう。その男をアメリカの計画に使わせて欲しいというのがヒュー・オブライエンの、従ってアメリカ大統領ジュリア・ジョーンズ大統領の希望だった。しかし、これは先方の休眠工作員の身の安全も考えなければならないし、日本は、北朝鮮が今までどんな理不尽なカードを切ってきたときにも、このルートは使わなかった。これは日本の国家存亡の危機にあるときにのみ使う手はずだった。篠崎百合子が思案しているのを見て、ヒュー・オブライエンはアメリカ側の手の内を明らかにした。

「今北朝鮮にアメリカのエージェントが潜入している」

そして続けて篠崎が卒倒するようなことを言い出した。

「小型核爆弾を持ってだ」

もしや、ロシアから盗まれピアニストの日高由美子のマトリューシカの中に隠され、横浜でアメリカ大使館の職員に引き渡されたというのは本当のことだったのか。

「アメリカがなぜ他国の核兵器が必要なのでしょう。核兵器なら地球を何回も焼き尽くすほど所有しているはずでしょうに」

篠崎は少々皮肉っぽく尋ねた。

「確かに。しかし、核には人間と同じように指紋がある。どこの国が開発した代物か、その筋のものには分かってしまう」、

と意に介せずオブライエンは言った。

「それでロシアの核を。それではなぜ直接取引をしなかったのです」

「ワンクッション置きたかった。ロシアとの関係もアメリカにとって重要で微妙だからね」

「それで日本を第3国として選んだ。貴国は組織も揃っているがわが国のその筋の関係管庁の動きも鈍いからというわけですか」、

と篠崎は自嘲気味に応酬した。東条は、日本内閣調査室もずいぶん甘く見られたものだと訝ったが、確かにこの男の言うとおりだ。日本はスパイ天国と国際間のこの筋では噂されている通り、取り締まりの法律も不備で、従事する人間も他国に比べて極端に少ない。ま、これはこの際言っても仕方のないことと納得せざるを得ないが。

「で、貴国の最終目的は・・・」

東条が切り込んだ。

「もちろん、本国国内に潜んでいるパキスタン製の核爆弾を排除すること。そして・・・」

少し言いよどんで、

「パク・ジョンイルを抹殺する」

パク・ジョンイルは、自分が指導した計画経済の完全な失敗を穴埋めするために、自国民「同志」を人質にして、近隣諸国に食料をはじめエネルギーや金品を強要し、核開発に手を染め、それをまた海外からの援助の交換条件に使い、何とか生き延びようとしてきた。ここまではアメリカも大目に見てきたが、北が核を「商品」として、他国に売り渡そうと計画するに及んで、忍耐も限度に達した。アメリカが打ち出した条件は、北の核開発を民生用も含めて禁止しない限り援助を打ち切ることを示唆し、日本も追従することを決めた。腰砕けの韓国政府は従来どおりの援助を約束したが、それには国民感情から限りがあった。今も38度線を挟んで、両軍が対峙しているのだ。それに日本同様拉致問題がある。拉致家族は、北を援助する政府を突き上げる。従って、大胆な援助には出にくい。この問題には、北京もモスクワも模様眺めだ。ここでアメリカと日本が、世界に目配せをして関係諸国が援助停止に動いたら、パク・ジョンイル政権は、といっても彼一人だが、保たない。その上でアメリカは、まだ「商売」を続けるなら軍事的手段に訴えることを、裏ルートでパク・ジョンイルに伝えた。そうなれば平常ではいくら将軍様と崇められていても次の瞬間には、党からも軍部からも突き上げを食い失脚するだろう。

パク・ジョンイルは賭に出たのだ。密かに、アメリカを核で脅すという方法で。アメリカは、これで手も足も出ないだろうと読んだのだ。北が、国家としての外交というものを考えるのならこのような出方はあり得ないことだが、国家ではなく、「パク・ジョンイルの所有国家」である北朝鮮は、どうにでもなり得た。しかし、アメリカもただ座視しているばかりではなかった。即座に反撃に出た。しかし、事が起これば失うものの大きさからすればアメリカだろう。そして日本も。日本は既にアメリカから腰砕けと見られている。日本に出来ることはただ援助を続けるか、それともオープンにして国際関係の中で北に圧力をかけ核を取り除けさせるか。それにしても北が難癖付けるのは目に見えている。韓国を抱き込んで、戦時中の日本の植民地政策の残虐さをアピールして現在の事件を「正当」と訴えるのは訳のないことだ。理屈と膏薬はどこにでもつく。大山一郎はこれからもパク・ジョンイルの言うがままに物資を援助するのか、これが表沙汰になれば、右翼や硬派の党員が黙っていないだろう。それに日本は大混乱に陥る。それだけは避けなければならない。この時点で、首相には選択肢は残されていなかった。大山一郎首相はアメリカと手を組むことにした。しかし、互いの指導者は、これが失敗したら両国が多大な損害を受けることを知っていた。そしてこれは人口と国土がアメリカとは比較にならないくらい密集している日本の方の打撃が大きいことも。

2007年10月19日 (金)

永き眠りの後に#18-19

デッサン18

新潟港に入港した北朝鮮の貨客船バン・ヨン・ジュン号は小雨の中、荷物の積み下ろしとこれから母国へ出発する修学旅行の朝鮮高校の生徒一二〇人の乗船手続きの最中だった。まず、新潟管区の税関の手で一人ひとりの荷物が検査される。かなり綿密に検査されるのは、このルートを通して多額の現金が北朝鮮へ渡るためである。今回は珍しく政府要人が数人乗船した。すべての旅行者と荷物を積み込んだバン・ヨン・ジュン号はこれで出航準備が整い、岸壁を離脱するのだが今回はちょっと手順が違っていた。まだ後方の船倉のゲートが開いたままになっているし桟橋も架けられたままになっている。そしていままで気がつかなかったが倉庫郡の端に待機していたトラックが動き出した。そのトラックには社名はもちろん文字らしきものは一切書かれていなかったが、自衛隊の軍用トラックを民間向きに塗装しなおしたものらしかった。運送会社の制服らしいものを着用している運転手と助手はあたりに気を配りながらバン・ヨン・ジュン号に近づきだした。この桟橋は、いつもだったら見送りの北朝鮮関係者でごった返すのに今日はなぜか埠頭の近辺にひとっ子一人見当たらす閑散としている。船上にも人影が見当たらず、果敢な時期の朝鮮学校の生徒の談笑の声も聞かれない。先ほど乗船した政府の要人と思しき男たちが下船してきた。それと同時に例のトラックが桟橋から船内に静かに吸い込まれていった。積荷は先日スイスの銀行から政府専用機で運び込まれた二五トンの荷物。すべて百ドル紙幣で五〇億ドル。これは公表されなかったが、日本政府からパク・ジョンイルへの贈り物である。幾重にも梱包された一,五メートル四方の印刷物のような荷物5個は、北朝鮮の船員の手によって手際よく降ろされ特別な倉庫へと消えていった。すべて運び終わったのを確認した日本側の人物に北朝鮮の要人とおぼしき人物が近寄って耳打ちした。それを聞いた日本政府の要人は相手を睨みつけた。次回もよろしく、その北朝鮮の要人は不敵な笑いを残して消えていった。呆然と立ち尽くす日本政府の代表者は無念さにこぶしを握り締めたがどうすることも出来なかった。相手は日本国民を人質にとっているのだ。それも今まで拉致した日本人の総数とは比較にならない何十万人もの命を押さえているのだ。背後で控えている運送会社の運転手とおぼしき二人の担当者も、その目は憎しみと怒りで爛々と輝いていた。それに引き替えて北朝鮮の乗組員は薄ら笑いを浮かべて日本側を愚弄しているかのようだった。かれらも事の内容をある程度知らされているのだ。日本政府は北朝鮮に対して手も足も出ないことを知っているのだ。彼らは、これ程に日本を従属させる力を持つわが領主パク・ジョンイル総書記に対して益々強い畏敬の念を持つのだった。

かくて何事もなかったかのようにバン・ヨン・ジュン号は定時に出航した。パク・ジョンイルの高笑いに聞こえる汽笛を残しながら・・・

デッサン19

同志。アン・ヨンスン副議長から緊急の電話です、と接待係の若い兵士は耳打ちした。

北朝鮮全土から選りすぐられた美女たちに囲まれ、フランスの高級ブランディーを口にしていたところだった同志はムッとして若い兵士を睨んだ。この時間は駄目ですと何度も申し上げたのですが、副議長が言われるには、もしおまえが今この用件を取り次がなかったら格下げでは済まないぞとおっしゃられ、同志もきっと了解されるはずだ、すぐ取り次げ、と強引にいわれましたので・・・。かなりあせっておられるご様子でした。パク・ジョンイル同志は、父親の朴日成の死後、巧みな政治手腕を発揮し、まず要の軍部を手なずけ、それを背景に党を支配した。同志は、権力を得るためには自分の親族も兄弟も母親も妻も粛清の対象にした。その点ローマ皇帝のネロも顔負けだが他にもネロと類似点があった。自分を芸術家と自称し、文化面にも口出しをし、映画製作や舞台芸術にも自称だが「造詣」が深かった。同志がくちばしを挟むことに批判的な関係者は容赦なく格下げか収容所送りとなり、彼の周りはイエスマンしか生き残れない構図になっていた。従って彼に物申す人間は軍部にも党にも、もちろん一般市民にもいなかった。そんな同志は、機嫌がいいときには自分が作った詩を朗読して聞かせ、周りの太鼓もちたちの顔を引きつらせた。今度は何と言って賞賛したらよいのか、前回の言葉を繰り返したものかどうかが取り巻き連中の悩みの種だった。それは政治局も軍部も同じで北朝鮮で生き延びるためにはあまり目立った仕事をしても睨まれ無能だと収容所が待っているという構図で、下で仕える者はもっぱらこのさじ加減に腐心するのだった。

社会主義国家始まって以来の世襲で手に入れたこの絶大な権力は、従ってこのこと自体が社会主義に反することだがだれもこの異常さを咎めることは出来なかった。西側諸国はこれを「パク王朝」といって揶揄したが、北朝鮮国内にはなんの影響もなかった。彼の社会主義国家は朝鮮戦争以来、政策は失敗に失敗を重ね国民は塗炭の苦しみの中極度に弱り、地方では餓死者が毎年数万単位で出る始末で、おまけに中央集権の一部の特権階級が物資を占有し、ますます一般市民の生活は極貧を強いられる始末だった。もし、この状況の中で国連主導の食料・エネルギー援助がなかった場合国民の三分の一は餓死ないしは極度の栄養失調のために廃人になるだろうと言われていた。しかし、だからといって批判めいたことは新聞にも人々の話題にもひと言も出てこない。それは北朝鮮に住む人々にとって、明日の命には保証がないと言うことを意味しているからだ。従って、パク・ジョンイル同志の誕生日に各地で開催される盛大な祝い事に笑顔いっぱいのマスゲームが催され観客席の民衆も最大の讃辞を贈っているが、それを額面どおりに取る人はいない。むしろそれは逆なのだ。それがまかり通るのは一党独裁の恐怖政治のなせる技なのだ。

権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する、と歴史学者J・E・アクトンが言ったが、正にその見本がここにある。例え、それが当初は腐敗した権力を打ち倒すためのものであっても、ひとたび権力として成り代わった時点でまた新たな腐敗の道を歩むものなのだ。だから権力は絶対的なものであってはならないのに、彼は権力の座に居続けるためにますます腐敗と暴虐を繰り返すことになった。また、彼の狡猾で用心深さもここまで生き延びることに貢献した。ある筋の情報によると、ピョンヤンとその郊外に無数の秘密施設を構え、パク・ジョンイルは常に居場所を変え、二日とて同じ場所で過ごすことはないとのこと。居場所を常に把握しているのは党内で三人だけというのがもっぱらの噂である。彼はだれも信用していないのである。しかし、このような異常な国家の中にあって、ひとりだけパク・ジョンイルにもの申すことが出来る人間がいる。緊急の電話はその男からのものだった。パク・ジョンイルはしばらく考えて電話に出ることにした。

パク・ジョンイル同志を慰めるために組織された若くて魅力的な女性たちは、その美しい肢体を隠すためなのか露にするためなのか、いくら物不足の国とはいえこれほど節約した布きれで作られた「ドレス」はないだろうと思われるもので身を包んで傍らにはべっている。その中へ無粋な盗聴不能な電話機が持ち込まれた。女性たちは身じろぎもせず感心をその一点に集中して聞き入った。今しおれている彼女たちも、将軍様の気分次第で、ひとつ間違えばひとも羨む境遇から収容所の強制労働への階段は隣り合わせだということをよく知っているのだ。

パク・ジョンイルが受話器を取ったことを察知した先方は何事か話しだした。

しばらく黙って聞いていた同志の額に脂汗が滲み出し、脂肪で醜く膨れ上がった下腹が波打ちだし呼吸が荒くなった。悪い兆候だ。同志は短気でサディストで気に食わないことがあれば事と無関係な周りに当り散らし、そのとばっちりで命を落とすこともあるのだ。この時、たまたま同志のそば近くにしなだれていた女性がちょっとしたそそうをした。同志のブランディーグラスを倒し、同志の衣服に真っ赤な染みをつくってしまったのだ。女は真っ青になり、小さな布切れで覆われた体は鳥肌で震えだした。それとは反対に周りのとりすました取り巻き連はほっとした。今晩の犠牲者は自分ではなかったことを知ったのだ。それが証拠に、薄暗い部屋にそそうをした女ひとりが残され他は退室を命じられた。しばらく朱に染まった衣服に気も留めず呆然としていたパク・ジョンイルは、震えている女を満面の笑顔で見下ろしながら、何を思ったのかコーナーのテーブルに飾ってあったりんごの皮をむき出した。女はさっきよりももっと激しく震えだし、手足の震えが遠目にも見えるほどになった。蛇に睨まれたカエルとはこのような状況を言うのだろうか、女はこの先何が自分の身に起ころうとしているのかが予測でいない中、決して良いことは起きないだろうことを悟った。パク・ジョンイルは若い女の狼狽ぶりを満足そうに見ながら、自分でむいたりんごの小片を女に与え、食べろというそぶりをした。女はますます震える手でりんごの小片を受け取り口に運んだがとても食べられるような状態ではなかった。キム同志はもう一度食べろと目で合図した。女は何とかそれを口に入れ飲み込んだ。次に、立てと命令された。女は立とうとしたが躓いて立てなかった。足腰に力が入らず足もとがふらついて一秒も立っておれなかった。同志はにやりとしながら女を後ろから前から鑑賞しながらに近づき、女の両手を自分のナイトガウンのロープで縛り柱につり上げた。女は恐怖のあまり溺れかけた子どものように呼吸は乱れ、眼は宙を見て抵抗らしき反応は何もしなかった。両手を縛られつり上げられた女性の肢体を満足げに見渡しながらパク・ジョンイルは先ほどリンゴの皮をむいたナイフに目を向けてから女の方に目を移した。手にしたナイフは女のドレスのひもを一本ずつ時間をかけながら切り取り、真っ白な肢体を薄明かりの中に浮き上がらせた。パク・ジョンイル同志は満足げな顔で女の体を見回し、最後に女の顔を無表情な目で正視した。その時、女は自分の運命を悟ったかのように目を閉じた。そして、パク・ジョンイルは何か意味不明なことばを吐きながら女の柔らかでふくよかな体に静かにナイフを沈めていった。女はなされるがまま、小さな叫び声を上げて自分の体重を手首のロープに預けた。この世の最後に女が見た光景は、狂気に目を輝かし、自分の体に何度も何度もナイフを突き刺す「同志」の姿だった。そして一瞬、脳裏を過ぎったのは、幼い頃両親と弟たちと故郷の小川で小魚を追いかけた頃の楽しかった思い出だった。だんだんと薄れていく意識の中で最後の一瞬だが、この「同志・将軍」といわれる男への限りない憎悪が沸いてきた。誰でもいい。この男に死ぬほどの恐怖を与えて命乞いをさせて・・・。この運のなかった若い女は、最後に、まるでその願いが叶えられたかのように笑顔で事切れた。それがパク・ジョンイルをさらに激高させ狂気に走らせた。なんでこの女は笑顔で事切れたのか。恐怖に顔を引きつらせながら死んでいくことを期待していたのに。部屋にあるものは何でも手当たり次第に床にたたき付け、パク・ジョンイル同志は二本目のブランディーをラッパ飲みし疲れ果ててその場で寝込んでしまった。

女の故郷北部の雲南省の両親の家には、娘が事故に遭い死亡したとの連絡とともに、パク・ジョンイル同志の花束と幾ばくかの慰労金が届けられた。両親は自分の娘が将軍様の傍近く仕えているのを自慢にしていたので、突然の訃報に悲嘆にくれたが、総書記からの花束は誇らしかった。この村の近辺ではまだ誰もその栄誉に与った者はいなかったのだ。それに両親は思った。事故ならしかたがない、と。確かに「事故」ではあったが。

両親は娘の弟と共に村はずれの小高い丘の上にその遺骨を埋葬した。ここからは小さい頃に親子で小魚を追いかけた小川も見えるし、それに少しは天にも近いだろう。頬はこけ前歯は数少なくなった両親は最後まで親として何もしてやれなかったことを娘の墓に詫びながらいつまでも立ちつくしていた。そして何も知らない幼い彼女の弟は遠くでそれを見守り、大きくなったら自分もお姉さんのようにパク・ジョンイル将軍のためにお役に立とうと決心するのだった。

パク・ジョンイルがなぜ最近になくいらだったのか。

アン・ヨンスン副議長の緊急連絡はひと言、同志暗殺のためにある男が送り込まれた、ということだった。ただそれだけなら今まで何回も暗殺を掻い潜り生き延びてきたパク・ジョンイルだからそう騒ぐこともないが、彼が以前になく恐れたのは、その男が国内に核を持ち込んだという情報があったと報告されたからだ。これは正に、パク・ジョンイルがアメリカの攻撃を思い止まらせ、今回日本から多額の食糧援助や資金をむしりとった方法と同じ手口だからだ。パク・ジョンイルはかってなく危険な賭けに出たのだ。だがそれは結果的にアメリカのトラの尾を踏むこととなった。これでいづれにしてもパク・ジョンイルは自分の運命に故国北朝鮮を道連れにしたのだ。日本からの援助には実はまだおまけがついていた。ここまで公表すると現在の大山内閣はもたないと思い公表は控えていたが、公表された他にアメリカドルで50億ドルの援助が約束されていたのだ。その第一回目が先週新潟よりバン・ヨン・ジュン号で将軍様へ届けられた。日本政府がこの金をどこから捻り出したのかといえば、腐るほど買っているアメリカの国債を担保に、スイスの銀行団より調達したのだ。日本政府が保証となり表向きは海外援助財団の名前になっているが、その中味は日本国政府の借金であった。

アメリカはイラクさえ片付けば、今度は北朝鮮という作戦シナリオは既に出来上がっていた。そしてそれをわざとニューヨークの国連本部に勤務している北の諜報員にリークして、現在進行中の核開発を思い止まらせようとしたが、それに対してパク・ジョンイルがとった手法は過激極まるものだった。軍部にも党委員会にも諮ることなく、側近の工作員のみを使って海外に極秘